破滅の前兆
「あ、でも本の売れ行きは順調なんですよね」
遥は作家なのだ。しかも、この出版不景気な時代でも押しも押されぬベストセラー作家で、書籍の累積販売数は軽く一千万部を超えるという。二冊目を出すことすらかなわない作家が数多いる中で、これが才能でなくてなんだというのか。
「……ああ、売れてはいるみたいだね」
怜香は自信を持って褒めたのだが、なぜか遥の顔がさっきより暗くなった。こんなことで褒められても全くうれしくない、という空気が彼の周りに漂っている。
特に強制されて書き始めたという話も聞かないのに、どうしてこんなに憂鬱そうなのだろう。怜香はあれこれ考えてみたが、結局答えは出なかった。
☆☆☆
大阪城基地北東――風水で言えば『鬼門』にあたる一角に、小さな見張り用の家屋が建っていた。いつもは三、四人が詰めている室内も、今日はやけにがらんとしている。広さは八畳ほどしかない部屋の中で、柴犬は見張りの当直日誌を記入していた。きりの良いところまで書き上げると、手を止めてふと小屋の外を見る。
曇り防止の加工がされた窓からは、ピンクのコートを着た少女がじっと立っているのが見える。バレリーナのようにすらりとした後ろ姿を見ながら、柴犬はため息をついた。見張りなら小屋の中からすれば暖かくていいのに、何が良くてずっと外に立っているのだろう。さっきから、柴犬が何回中に入れと言っても聞かないのだ。
見張りは彼女に任せてひと眠りしてしまおうか、という黒い考えが柴犬の中に沸いたが、それはすぐ消えた。彼女がいくらデバイス使いだからと言って、それはあまりに薄情すぎる。仕方なく柴犬は、また彼女に声をかけに行くことにした。
ぬくぬくと暖房のきいた室内を出たとたん、寒気が柴犬の全身を舐める。翌日にクリスマスを控えた季節、外の寒さはきびしく、風が通り抜けるたびにかたかたと柴犬の顎がいやな音をたてて鳴った。
「お嬢さん、中に入ってください」
「くあ」
柴犬の心配をよそに、見張りに立っていた少女が大きなあくびをした。柴犬は呆れる。
「よくあくびができますね。このクソ寒い中」
「ほほほ、お母様が作ってくださったこの防寒コートがあれば寒さなんぞ。柴犬、ほしければ作ってあげてもよくってよ」
「あ、じゃあお願いします。色はピンクじゃない方がいいですけど。あと、フリルもいらないです」
柴犬が言うと、少女は宇宙人でも見るような目でこちらを見てきた。
「柴犬、この素晴らしいデザインがわからないのね。やはり犬だからかしら」
「名字は俺のせいではありません」
そう、冗談ではなく、本当に『柴犬』が名字なのである。この名字のために、今まで何度からかわれたかももう覚えていない。軍に入ってからもそれは変わらず、あだ名が「わんこ」になった時、柴犬は顔も知らぬ先祖を心底呪った。
「このデザインそのままならば、全隊員に支給すると今井家が申し出たと言うのに……部隊長以下全員首を横に振るなんて、信じられませんわ」
柴犬は今井の横顔を見た。怒りで顔を紅潮させ、唇をかんでいる。冗談で言っているのではなさそうだ。
(やっぱりズレてるんだよなあ……お嬢様育ちだからなあ)
ゴツむさい隊員たちが、ピンクのフリル付きコートに身を包んでいる様子を想像すると、寒さがいっそう厳しく感じられた。今井本人は華奢な体つきだし、やや濃い顔立ちだが美人だからいいだろうが、周りも自分と同じだと信じ込んでいるのは困りものだ。
「ほら、帰りましょう」
「油断は禁物ですのよ? あなた、なんのためにここにいるんですの」
「そう言われるとぐうの音もでませんが、敵が来る来ると言って、ちっとも来ないじゃないですか」
柴犬が素直な感想を口にする。妖怪との内戦が始まってから約一年半たつが、実は大阪で大規模な戦闘は一度も起きていない。その上、ここは鉄壁とまでいわれた大阪城基地の中である。訓練は欠かしていないものの、柴犬をはじめとする一般兵たちがだらけているのは否定のしようがなかった。
「今日来るかもしれませんわよ。そのだらしのない顔をなんとかなさいな」
「まじめなのは司令くらいです。みんなこんな顔をしてましたよ」
柴犬は言い返してやった。今は特に、クリスマス前の休暇が認められなかった連中だけが残っている。士気が特に低くなっている時期なのだ。本来、見張りに立つ予定がない今井がここにいるのも、みんな休暇中で人員が足りないからだった。
「それでもです……っ!」
反論しはじめようとしたのを慌ててやめ、今井がはじかれたように走り出した。さっきまであれだけ戻るまいとしていた小屋の中へ、一目散に突っ走っていく。柴犬も急いで今井を追う。
柴犬が小屋に入ると、今井はばたん、と扉を締めてご丁寧に鍵を二重にかけた。やっと暖かい室内に戻れたのはうれしいが、今井の顔が大きくひきつったままなのが気になる。




