幼なじみの声
怜香はさっき見た煙のことを話そうか、かなり迷った。しかし、新や和泉があれを見ていない以上、いきなり言っても信じてもらえるとは限らない。
(呪術のたぐい? まさか)
怜香の頭に、ふっとこの前聞いた葵の一言がよみがえった。
『牛の頭に鬼の体、または変異種として蜘蛛の体を持つ個体も確認されている。人肉を好み性格は一般的にきわめて凶暴。うっかり殺すと、殺した人間が次の牛鬼になるとも言われている』
ばかげている。人と牛鬼では、そもそも体の大きさがまるで違うし、そんなに簡単に種族が変わるとも思えない。怜香の理性の声は、ひっきりなしにそんな馬鹿な考えは捨てろと告げてくる。
しかし、もう一つの声、自分の心の奥底から聞こえてくる本能の声は、『それが正解だ』としきりにささやく。そうでなければあの真っ黒な煙の説明がつかないし、苦しみ始めた大和の様子はまさに水の中にひきずりこまれたようだったではないか。
怜香がぞくりと身震いをしたところで、ようやく医者が到着した。初老の人のよさそうな顔をした彼は、新の後を追って二階へあがっていく。
待っている間、怜香はよほど不安そうな顔をしていたのだろう。メイドの一人が横からそっと暖かいお茶を出してくれた。それをすすりながら階段を見上げていると、新と医者が連れ立って階段を降りてきた。
「どないですか」
和泉が医師につめよる。メイドたちも、立ち去らずに物陰からこっそり様子をうかがっているのが見えた。
「心配あらへん。脈拍も正常、熱もない。本人がもう起きる言うて聞かへんくらいや」
医師が笑顔で太鼓判を押す。そこで和泉がほうっと息を吐き、ようやくだらんと全身の力を抜いた。
「ありがとうございます。で、原因は」
「……それがなあ、全くわからん。現時点では何の症状もあらへん、御神楽さんの証言がなかったら仮病を疑うくらいの元気さや」
医師はずばりと恐ろしいことを言った。お抱え医だからだろうか、率直すぎるほどの意見である。
「疑わしいと思うでしょうが、弟が苦しんどったのは嘘ではないんで。俺も見ました」
「ああ、そこは信用しとるよ。血液を少しとらせてもらったから、検査に回すわ。明日病院に行っといたほうがええ。それまで坊をひとりにせんことやな」
結局それ以上の進展は何もなく、少し安定剤と気付けの漢方薬を置いて医師は帰っていった。
「しゃあない、儂も少し寝てから静香と交代するわ。和泉も怜香ちゃんももう休んでくれ」
新に言われ、怜香は結局牛鬼のことは一言も口にしないまま、とぼとぼと客間まで戻った。まだ時計の針は十時前をさしていたが、起きていてもすることがないので早々に着替えて床に入る。
しかし、憔悴した顔の新に、呪いのことを言った方がよかったのかと、考えだけが頭の中をぐるぐる巡って寝付けない。
ふいに枕元においていた携帯が鳴る。怜香は飛び起きて、電話に出た。
「はい」
「ああ、俺だ」
「どこの俺様でしょうか」
「声でわかるくせに白々しいぞ」
電話口から、経でも唱えているような声で文句を言われた。が、今の怜香にはそれが何よりありがたい。
「電話くれてありがとう。葵の方は順調?」
葵は現在、東京でアメリカ海兵隊の遠征隊中佐と会談中だ。内戦の激化は避けられないため、いざという時に備えて情報を交換しておこうという狙いがある。最終日には海兵隊のトップである中将も合流するらしい。
もっとも、膨らみ続ける軍事費抑制のため、米国内で海兵隊を撤退させよという声が大きくなっている。どこまで頼りにできるかは全くの未知数だ。最悪、支援なしの場合もあると覚悟しておかねばならないと葵は言っていた。
「さして順調ともいえん。実績のある要姉貴はともかく、俺は完全に異分子だ」
「冷たくされたりしてるわけ?」
「いや、向こうもプロだから口には出さん。姉貴の例もあるしな。だが、俺を見たとたん『ジャパニーズもついにジョークを覚えたんだねアイシー』と言いたげな目を一瞬していた」
まあ、常識的に言えば海軍中佐の反応の方が正しい。葵もさして気にしていないようで、約二万人といわれる駐在アメリカ兵たちがどう動くか楽しみだ、と淡々と言った。
「まだ数日あるんだっけ?」
「ああ。俺だけでなく、兵站部門の親父も彼らと話したいことが山ほどあるようでな。予定は三日しかないから、大変だがその間に詰め込む予定だ」
「そう」
大変だ大変だと言いながら、あっさり人にできないことをやりとげてしまう幼なじみのことだから、きっと大丈夫だろう。電話で葵が軍事機密を話すはずもないので、怜香はことの次第をつっこんでは聞かなかった。




