強かろうが諦めぬ
「待って。ヴァルキリーを行かせるわ。彼女なら実体がない」
葵が飛行装置をいじったのを見て、怜香が慌てて準備しだした。葵は片手をあげて彼女を制止する。
「……残念ながら、奴がそんな手にひっかかるとは思えん。異常なまでに、命あるものを見分ける奴だ。おそらく体温かなにかで感知しているんだろう」
葵は以前、ヴァルキリーの手を握らせてもらったことがある。異常に白い彼女の肌は、いつまでたっても氷を握った直後の手のように冷たかった。あれで海難法師を騙せるとは思えない。
「生きた餌が行かないと、どうしようもない。しかも、お前とヴァルキリーは視覚を共有してる。下手にヴァルキリーを動かしたら自分も死ぬぞ」
怜香がぐっと言い淀んだ。葵は怜香の頭をぐしゃぐしゃ撫でまわしてから、下降の準備を始める。小兎が心配そうに話しかけてきた。
「い、行っちゃうんですか?」
「後を頼む。小兎三尉、三千院からのヘリが来たら、無線で知らせろ」
「わ、わかりました」
「その後のことはこちらから指示する。君がこの作戦の要だ、しっかり頼むぞ」
「ふぇ? 私もともと、戦闘にはあまり向いてないんですけどっ」
小兎はまだ混乱していたが、葵はほっておいて急降下した。さっき連絡のあった護衛鑑さざなみに向かって、ひたすら駆ける。
幸い妖怪たちが海難法師を遠巻きにしていたおかげで、葵は無事に甲板に降り立つことができた。
エレベーターで艦内へ降り、操舵室を目指して歩き始めた。櫂の音は聞こえてこない。艦内の構造は全て頭に入っているおかげで、目を閉じたままでも壁伝いに進むことができる。
三回ほど扉を抜けたその時、ぽんと肩に何かがふれる。葵は一瞬大きく息を吸った。が、。置かれた手は温かい。亡者の不気味な手ではなかった。
「さ、三千院一尉」
「誰だ」
人間の声で名を呼ばれる。葵はいつもと変わらない声で、彼の名前を聞いた。
「護衛艦さざなみの乗組員、吉村です。見て頂きたいものが」
がちがちと震えながらも吉村はまじめに返事をした。哀れに思い、葵はため息をつきつつ振り返った。
ただし、しっかり目を閉じたまま。
「ぎううううう」
とたんに、明らかに人間のものではない怒りの声があがった。あてが外れた海難法師が、唸っているのだろう。
「あー、やっぱりこいつの背後にへばりついてやがったか。化け物の手で触ったら、俺が反応しないかと思ったわけだ。なかなか賢いな、おまえが人間の時にその知能があればよかったのに」
葵が海難法師を嘲笑う。もはや隠れる気のなくなった海難法師が、葵にへばりついてきた。耳元で低いうなり声がひっきりなしに聞こえる。
「なんでばれたか教えてやろうか」
葵は寒気をこらえ、重い身を引きずり歩き出した。一歩歩くたびに、べしゃりべしゃりと濡れた音が葵の後をついてくる。
「臭いんだよ、お前は。少し離れてても匂いで分かる」
葵は淡々と言う。耳の穴にぬるりとした臭い水が入ってきた気がしたが、これもそういう感覚がするだけのことだろう。なにせ実体がないから、こういう錯覚を起こして獲物に目を開けさせるのだ。
葵は来た道を戻る。生臭さはますます強くなり、吐きそうなほどになっていた。瞼に海藻を押しつけられたような不快感があるが、葵はかろうじてエレベーターを起動させることができた。
昇っていくエレベーターの中で、葵はぼそりと無線に向かって呟く。
「今から甲板に行く」
『了解しました』
すでに到着していたのか、三千院の部下たちの声がする。喋るな、と言わんばかりに葵の口の中が苦くなる。溺れかけて海水を飲み込んだ時のように口内が辛い。もっと話したかったが、気持ち悪いので仕方なく葵は断念した。
『坊ちゃま、御無事ですか』
葵がちっとも応答しないので、無線から更に言葉がこぼれる。葵は何も言わず、のたのたとエレベーターから出た。逃がさんとばかりに、強烈な寒気が葵の全身をかけめぐる。銃を持つこともできず、葵は仕方なく両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「メヲ アケレバ ナオシテヤル」
そんなわけあるか馬ぁ鹿、と葵は心の中で悪態をつく。が、全身の悪寒がますます強くなるこの状況で言われれば、普通の人間なら開けてしまうのだろう。
「コノママデハ シヌ」
海難法師の言う通り、甲板にいるはずなのに海に頭を押しつけられているような息苦しさが襲ってきた。本能的に命の危機を感じる。おそらくこれが奴の最終手段なのだろう。
しかし、葵は絶望せずにしっかりと目をつぐんでいた。上空から三千院家のヘリコプターのプロペラ音がしたからだ。
『準備完了、いつでもいけます』
「よし、作戦開始」
葵はようやく一言を絞り出す。海難法師が葵の異変を察知し、唸り声をあげた。
次の瞬間、上空から大量の粉がどっと散布された。どさりどさりと音を立てながら、容赦なく粉が甲板に落ちてくる。海難法師の生臭さとはまた違う、食物が腐ったような酸っぱい臭さが葵の口内に流れ込んできた。まるで臭さの展覧会のようだ。 葵は激しくむせこみ、うっかり目を開かないように堅く目をつぶった。
ふっと、体にまとわりついていた重い気配がなくなった。葵は水からあがった時のように、大きく息をつく。おおお、という怒りのこもった唸り声が、徐々に小さくなっていった。
「音が遠ざかってる。一尉、あいつ逃げてくよ!」
小兎の声が無線から聞こえてくる。そこで葵はようやく目を開いた。目を閉じていたのは短い時間だったはずなのに、視界がうまくなじまない。
ぶるりと体をふるわせると、黒い泥のようなものが体からぼたぼたと落ちた。なにでできているか少し興味はあったが、泥は甲板に落ちて日光にさらされると、あっという間にぼろぼろになって消えていった。
「無事?」
気がつくと、甲板に怜香が立っていた。怜香は駆け寄ってきて、まだ強烈に臭うはずの葵の肩を揺する。ヘリの音がまだするので互いの声が聞き取りにくいが、二人は無事を確認し合った。
「問題ない。俺より早く船内の確認を」
「それは他の人が行ってるわ。あー、良かった」
怜香が胸をなで下ろしたところで、小兎が甲板にやってきた。
「うわ、一尉全身緑色だよ! すごい匂いだねえ。これ、何?」
小兎は葵から数メートル離れたところでため息をついている。怜香と比べると薄情なものだが、これが一般的な女子の反応だろう。
「トベラの葉だ。匂いがきついせいで、昔から魔よけに使われている。賭けだったが、効いたな。奴はどうなった」
「音? もう小さくなってるけど……」
小兎は両耳についているイヤーカフに手をやった。兎が耳にしがみついているような変わったデザインをしている。ちかちかと兎の目が黄色く輝き、三回目で小兎が顔を上げた。
「海難法師が方向を変えた、この船から見て後ろに逃げてる。……逃げてるにしてはおかしいね、後ろは人工島しかないよ?」
「ああ、逃げてるんじゃない。懲りずに後ろのいせときりしまを狙う気だ」
本当にしつこい奴だ、と葵は腕を組む。上を見上げると、ヘリは三機いた。右の一機はよく見る形のヘリだが、大きなタンクを二つぶら下げている。中央の機体はやたら縦に長く、プロペラが前後に一つずつついている輸送特化型。左は全体的に迷彩が施されており、機体横に棒のようなミサイルがくっついている戦闘ヘリだ。
全て葵の指示通りに揃っている。今度はこちらが狩る側になるのだ。




