あるスパイの心中
「嘘じゃないもーん。その証拠にもう帰るし」
女はそう言うが早いか、すっくと立ち上がり、シルクハットを軽くはじいた。帽子からひょっこりと黄色いひよこが顔を出す。
一瞬の沈黙の後、ごうごうと空気がうねった。つむじ風が目に入り、葵が一瞬目を覆う。女に向かって糸をとばしたが、突風にあおられて途中でくねってしまった。
葵が視界を取り戻した時にはもう、女は数メートル上空にいた。巨大な鷹に似た、金色の鳥の背中で大胆にも寝そべっている。
「さっきのひよこか、それ」
「ご明察ー。じゃねー」
高射砲が稼働する機械音がしたが、もう遅い。さっと鳥の翼がはためくと、女と鳥は瞬く間に小さな点になって消えていった。
「坊っちゃま」
背後から葵を呼ぶ声がし、複数の足音が聞こえてくる。葵は軽く肩をすくめて、彼らを出迎えた。
「ご無事で」
「大事ない。取り逃がしてすまんな。まさかあそこまでさっさと行ってしまうとは思っていなかった」
大丈夫だと言っているのに、どこからともなく現れた医療班によって葵はもみくちゃにされた。修と俊が混じっていたが、おもしろそうに笑いながら見ているだけで、全くやめさせようとはしない。兄弟とはかくも薄情な存在である。
やっとボディチェックが終わったところで、巌と昴が駆けつけてきた。都は母屋に置いてきたのか、巌の腕は空っぽだった。二人に無事か、と聞かれたので葵はうなずく。
「誰だった、侵入者は」
昴から問われたが、葵はわからないと正直に答えた。着任して一年と少し、佐久間をはじめとする学者たちと一緒に妖怪のデータを集めまくっているが、あんなゴスロリ妖怪は見たことがない。
「そうか……お前が知らんということは本当にノーマークの妖怪だな。新種か、海外からの流れものか」
「やたら派手なドレスを着てたな。欧州から来たかもしれない」
妖怪の中には空を飛べたり、海を渡れる種類も多い。しかしたいていの妖怪は自分の生息地から離れないのがふつうだ。が、たまにそういうことを全く気にしない流れものが敵軍に混じっていることがある。
「今まで報告された妖怪の画像データは取り込んであるよ。レーダーが補足しだい、迎撃装置が作動するはずなのに」
傍らで話を聞いていた俊が不思議がる。機械に強い俊は実家防衛システムの建設にも首をつっこんでおり、常々それを自慢していた。
「未確認のデータは常に存在するさ。角としっぽはあったが、ほぼヒト型だったしな」
葵はシステムの落ち度ではないと思う、と付け加えておいた。それでも俊は納得がいかないようで、ぶつぶつ何かつぶやいている。隣に立っていた修が、気にするなと言いたげな表情で葵に手を振った。
「これは坊ちゃまの持ち物で?」
周りを検分していたツナギ姿の男が葵に声をかけてきた。みると、芝の上に小さなカードが一枚落ちている。紫色のベースに、白色でなにやら魔方陣がびっしり書き込まれていた。
爆発物や火薬の反応はないということなので、葵はかがみこんでそれを手にとった。近くでみてみればなんということもない、ペラペラの紙のカードだ。カードを返して表を見た葵はなんだ、とつぶやいた。
「特殊な札だと期待したのに、ただのタロットか」
「そんな絵柄のタロットってありましたっけ?」
興味深げに後ろからのぞき込んでいた女性隊員が話しかけてきた。葵は説明を始める。
「よく使われるのは大アルカナだが、これは小アルカナだな」
タロットの総数は78枚、その大半である56枚を占めるのが小アルカナだ。56枚のカードはそれぞれ14枚ずつ4つのスートに分かれ、日常的な小さな決断に必要な導きを示すと言われている。
カードには豪華な飾りのついた石椅子が描かれ、それに若い王冠をかぶった男性が腰掛けている。彼は右手に剣を持ち、左手は何かを決意したように堅く握りしめていた。
「剣の王」
葵はぽつりとつぶやく。カードは地面に斜めになって落ちていたため、正位置だったのが逆位置だったのかはもはやわからない。
「どういう意味なんですか?」
「正位置、つまりこの男の頭が上にある場合は冷静な男、きっぱりした決断、情のからまない理性的な判断というところかな。まあ、俺は専門外だから詳しくはないが」
「逆位置だと悪い意味になっちゃうんですよね、確か」
「冷徹な男性、手段を選ばない行動、独裁的といったところか。同じ行動のオモテとウラだな」
あの女は妖怪なのに、人間の占いでもやるのだろうか。そうだとしたら葵の性格を見抜いていたということか。妙に当たっているのがおかしくて、葵は握っていたカードを自分のポケットに入れた。
「サイレンがとまりましたね。大事ではなかったようです」
トヨが最初に、よっこらしょと言いながら顔をあげる。ほかのメイドが、そろそろとつられて顔をあげた。
小さな八畳ほどの使用人部屋に、大人がぎっしり詰まっていたので少し狭苦しい。ベッドは大きくずらされ、その下からは無機質な金属の階段が下へ向かって伸びていた。緊急用の脱出通路のひとつである。
「まだ安心するのは早いのでは? みんなここに入っていたほうが……」
メイドの一人がおずおずと申し出た。彼女の顔には不安が張り付いている。
「大丈夫ですよ」
彼女をなだめるようにトヨが言ったのとほぼ同時に、壁についていたスピーカーが鳴った。
『侵入者は敷地内から離脱、全員普段の業務に戻ってくれ』
それだけ言って通信は切れた。相変わらず愛想のない坊ちゃまですこと、とトヨは苦笑いする。古参のメイドたちがつられて笑い出し、室内の空気が一気にやわらいだ。メイドや清掃スタッフが協力してベッドを押し、秘密の通路を押し隠す。室内はあっという間に、ありふれた洋室のひとつになってしまった。
「さ、みんな仕事に戻ってくださいね。ペアの相手がいるのを確認なさいね」
メイドたちが全員いなくなってから、トヨは腕まくりをして掃除機を持ち上げた。今はごたごたしていても、きっとこの家は大丈夫。亡きお嬢様の魂が、きっとここを守ってくださる。私の仕事は、お嬢様の愛した場所を少しでも整えることなのだ。
ゆったりと雑巾を洗いながら、メイドがくすりと笑った。彼女と組んでいた猫田は、なにか変なことでもしたろうかと内心冷や汗をかきながら「どうしたの?」と聞いた。
「猫田さんって、嘘ばっかり。家事が苦手なんて言って、私より上手いじゃないの」
「なんだ、脅かさないでよ」
猫田はほっと息をつき、同僚に向かってめっと顔をしかめてみせる。その間も、猫田の両手はせわしなく作業を続けていた。
「ほら、話をしてても手が止まってない」
「子供が二人もいるとね、話しながら作業できるくらいじゃないと間に合わないのよ」
「旦那さんに手伝ってもらえばいいのに」
「いない人に期待しても仕方ないでしょう。指宿さん、あなたさっきから休みすぎ」
相方はうへー、と声をあげた。そういうもんですかあ、といいながら実感がなさそうに宙を見ている。彼女はせいぜい二十代、一人で頑張るあわただしさがわからなくても無理はない。
ガラス拭きが終わり、窓が美しく磨き上げられた。大方猫田の手によって拭かれた窓だったが、指宿も隣で満足そうにしていた。彼女と同じくらいの娘がいる猫田は、仕方ないわねえと肩をすくめる。
彼女と本当に、ただの同僚でいられたらよかったのに。猫田の胸を、そんな思いがちらりとかすめた。
こうして彼女と並んでいる間でさえ、猫田はせわしなく室内に目をやっている。少しでも、三千院家の情報を持って帰らなければ。自分に白羽の矢が立ったからには、失敗は許されなかった。
さっきの侵入者は本当にチャンスだった。もう少しいてくれたら、脱出路の中に入り込むことができたのに。あの階段がどこに通じているかがわかれば、そこから富永の部隊を進入させることが可能だ。つくづく惜しいことをした。
「猫田さーん、食堂で人手が足りないんだって。呼ばれてるよ」
今行く、と指宿に返事をした。悩んでいても仕方ない、次の機会を待つのだ。猫田は大きくためいきをつき、袖を捲り上げて汚れた手を洗った。




