病弱な文学少年という異端
猛に聞かれ、葵はしばし考えた。普段、朝食は部屋まで運んでもらうことが圧倒的に多い。が、久しぶりに長兄が帰ってきたのだから、その理由を確かめておきたかった。職種の関係上、よっぽどのことがない限りこの男が呼び戻されることはないからだ。
「一緒に行く」
葵の回答が意外だったのか、猛はぎょろりと目をむいたが、すぐに気を取り直した。
「そうか、なら早くしろよ」
待っている間、猛は都と遊んでやっていたが、巌ほど彼女のツボを心得ていないために苦戦していた。終いには「じいじがよかった」と、容赦なく心をえぐる一言を投げられてがっくり首をたれていた。このまま放置しておくと猛が気の毒なことになりそうだったので、葵はさっとシャツを羽織った。
「ごはん、ごはん」
しゃべる玩具のように同じ単語を繰り返す都を横目で見ながら、葵は食堂に足を踏み入れた。洋館の設計上照明は小さかったが、この時間帯は大人の背丈ほどもある大きなガラス窓から日光がたっぷり差し込んでいた。壁にかかっている肖像画が、いつもと変わらず皮肉な顔で葵を見下ろしている。
先客は一人だけで、広い室内はがらんとしていた。長テーブルにかかっている、純白のテーブルクロスが目にまぶしい。給仕する人数が少ないため、メイドや給仕たちにもどこか弛緩した雰囲気が漂っている。
「おはようございます、猛様、葵様、都様」
一番年のいったメイドが、葵たちの存在を真っ先に認めた。早口で傍らにいた若い給仕に指示を飛ばし、葵たちに近寄ってくる。全員が椅子に腰掛けてから、彼女は一同の希望を聞き始めた。
「本日は何になさいますか」
「日本にいなかったからなー、和食がいい。白飯と味噌汁があればあとは適当にしてくれ。お前たちはなんにする」
猛が海外帰りの人間らしい選択をして、葵たちに水を向けた。葵は毎朝同じものと決めているので、迷わず答える。
「俺はいつものスムージーで」
「かしこまりました。1ポンドステーキ付きスムージーで」
「おまけと本体の比率がおかしい」
葵が抗議しても、老冥土……や、メイドはこたえた様子もなくぷいと横を向いた。ちょうど厨房から顔を出した古参の料理人と下手なウインクを交し合っている。畜生、ベテラン同士裏でつるみおって。どうせトヨからあれこれ言われているのだろう。
「みやこは、おにくも、おさかなも、おやさいもぜんぶじゃぞ」
「本当に都嬢ちゃまは好き嫌いがなくてえらいですねえ」
都が欲望全開の注文をすると、メイドは目じりを下げる。確かに、都は子供が嫌いそうな野菜だろうが海草だろうが、ぺろりと平らげてしまう。コーヒーだけは蛇蝎のごとく嫌っていたが、それ以外なら何でも食べられるというのは実にすばらしい。偏食家の葵は、素直にそう思っている。
「あっ、いちごだいふくも」
「はい、かしこまりました」
メイドはくすくす笑いながらすべての注文をとり終え、厨房へ去っていく。葵はようやく、テーブルにいた先客に話しかけた。
「悪いな、遥兄貴。騒がしくして」
「いや、かまわないよ」
線の細い、色白な男が読んでいた文庫本から顔を上げ、にっこりと微笑んだ。猛ががっしりした古木だとすれば、葵が遥と呼んだこの男はまさに柳である。ぐいと押せば折れてしまうのではと思うほど、細くて儚げだ。顔色もいつも青白く、五十メートルプールを泳ぎきれずに死にかけたことがある葵以上の虚弱体質だった。
「はるにい、なにをたべとるのじゃ」
都が興味深々で遥の皿を覗き込む。お行儀が悪いよ、とやんわりたしなめてから遥は説明しだした。
「湯豆腐と白身魚の焼き物、あとはおかゆ。おいしいよ」
「……食ってるものが病人っぽいな……」
猛が顔をしかめたが、遥は動じない。遥の薄味好みに葵は慣れているのでなんとも思わない。タンパク質をとっている分、葵の食事よりはましだろうし。
「僕はいいんだよ。軍人じゃないから。葵のほうがまずいだろ」
「俺は朝を食わないだけで、後の二食はまともだよ」
葵は遥に反論する。朝大量に食べると、午後ぼーっとしてしまうことが多いのであえて避けているだけだといったら彼はあっさり引き下がった。トヨは昔の人間なので、何回言ってもちっとも納得しないが。
「どうだ、小説の具合。まだ書いてんのか」
猛が話題を変えて、遥に話しかけた。遥は軽く頷く。
「今度また本が出るよ」
「早いな」
葵は舌をまいた。遥は三ヶ月前に最新作を発表したばかりだった。新しいシリーズもので、少し内容がグロテスクだった。本人はあまり気に入ってはいなかったようで、売れないかもしれないね、と遥がうれしげにつぶやいていたのを思い出す。
「僕はもうちょっと直しがしたかったんだけど、早く続刊をってせっつかれちゃって。本屋さんに在庫がなくなるくらい売れたんだってさ」
「へえ、そりゃ景気のいいこった。日本じゃ書籍業界は不振って聞いてたが、お前は違うんだな」
「……売れる作者には優しいからね。売れない作家がますます売れなくなる」
遥が、表情を曇らせながら言う。「穏やか」と表現されることが多い弟の修と違い、「気が弱い」「頼りない」と称される彼には珍しいほどきっぱりした口調だった。ほめた猛が、何か悪いことでも言ったかな、という顔をして引き下がる。
「ま、お前が嫌になったらやめればいいさ」
「ほかにできることが今のところないんだよね……。大学は受けるつもりだけど」
「今年か?」
「今年の冬から。結果は来年」
そこで料理が運ばれてきて、猛と遥の会話は一旦打ち切られた。いらないと言ったのに、葵の前にはしっかりとステーキが置かれている。1ポンドと言えるまで大きくないのが救いだ。
嫌々ナイフを入れて数切れかじり、残りは猛と都のほうへ押しやった。あっという間に、肉が彼らの胃袋に消えていく。背後から「チッ」と老女の舌打ちが聞こえた気がしたが、きっと幻聴だろう。
「葵はどこにする、大学。高校まではクマ校だろ」
ケチャップまみれになった都の口を拭いてやりながら、猛が聞いてきた。
「さあ? でも必要とも思わないな」
葵は首をひねった。大学には、さして行きたいと思ったことがない。中学までは義務教育だから仕方ないが、高校に行くかどうかも正直微妙だ。
「行かなくても自力で勉強する。無駄な金使うこともないだろ」
「お前ね、中学生が金の心配なんてしなくていいんだよ」
猛が葵の頭をぱんとはたく。葵はその手を払ってから本音を言った。
「訂正。金の心配はしてない。ただ行く意味を感じない」
「ただでさえ人間関係怪しいんだろ、お前。高校、大学で友達作っとけよ。優秀でも周りに気心知れたやつがいない人間は病むぞ」
「おともだちができるぞ」
都が上半身を乗り出して会話に乱入してきた。自分にもわかる単語がようやく出てきたので、うれしそうな顔をしている。遥もにこにこしながら話し出した。
「中学でも早速一人できたって聞いたけど、友達」
「アレは友達ではない」
遥がとんでもない誤解をしているようなので、葵は鼻息荒くきっぱりと言い切った。
「あ、ごめん……」
傍から見てもはっきりわかるくらい、遥はしゅんと肩を落とした。猛と都がじっと冷たい目で葵を見つめてくる。
「いや、俺が大人げなかった。ただ、あれは本当に友達でもなんでもないから」
「でも、ぶん……遊びに行ったりしてるんでしょ?」
遥は何か言いかけて急に方向転換した。何を言いかけたか葵にはわかる。文化祭、という単語はしばらく都の前ではタブーなのだ。




