殺戮への道はまだ続く
「実はさっき、私たちの目の前に落ちてきたんですよ」
「なんと。詳しくお聞きしたいです」
桜井が身を乗り出した。
「私より近くで見ていた人たちに聞きましょうか」
怜香は降り返り、さっきコワイに近づいていた隊員たちを呼びよせた。隊員たちは妙にぎくしゃくとした動きで、怜香に歩み寄る。
「どうしたの? 怪我?」
さっきまでの滑らかな動きとはまるで違う。ぎこちなさに疑問を持った怜香が尋ねた。
「いえ、ちょっと目がかすんで」
「念のために衛生兵に見てもらって。洗浄の必要があるかも」
怜香が最後まで言わないうちに、和泉が動き出した。眼鏡の奥で切れ長の目がつりあがっている。
「目がかすむ? いつからや」
「さっき、コワイに会ってからです」
和泉の剣幕に、少したじろぎながら隊員が答える。緊張に耐えかねたように、背後で鼻をすする音がした。
「久世三尉。間違いかもしれん。が、手遅れになってからやと遅い。さっきコワイに近寄った連中、全員離脱させるで。神経ガスに被爆した可能性がある」
「!」
怜香は息をのんだ。
「確かに、縮瞳・結膜の充血・鼻汁といえば神経性ガスの症状です」
「予防薬投与、防護服着用の除染部隊が要るな。自己注射は持っとるか」
「衛生兵が少し。ですが、全員分はありません」
「全部隊に通達、症状が出た隊員は撤退させる。病院にも連絡して受け入れ体制を整えてくれ。残った全員ガスマスク装着」
一斉に隊員たちが指示を受けて動き出す。怜香は和泉の話をそのまま他の部隊に無線で伝える。
「響さん、神経ガスにやられた可能性のある隊員たちを撤退させます。病院への搬送準備を」
「了解。被爆隊員は即時正門まで撤退せよ」
怜香の見たところでは、まだ動けなくなった隊員はいない。しかし大事をとって避難させるとなると、小隊のかなりの人員が離脱する結果になってしまう。
「……完全に計算外ですね。コワイを押さえないと、どんどんこちらが不利になります」
「壁に穴があいとらんかったらもっと悲惨や。人質全員ガスで死んどるわ」
「天逆毎はそこまで考えて」
「つくづく手強い妖怪やな。しゃあない、コワイは俺ら三人だけで追跡するで。天逆毎が帰ってこんうちにケリつける。マスクだけは外さんようにな」
怜香は頷き、不満顔の都にガスマスクを手渡す。重たいのう、と愚痴をこぼす都だったが、しぶしぶマスクを装着した。
「響さん、コワイの現在地は」
「現在追跡中。体育館方面へ向かったのは確認している」
「体育館……まさか」
「多分その想像はあってる。生き残った地縮も体育館へ移動を開始している。急げ」
怜香は通信を切る。今の話を聞いたかと和泉と都に確認を取ろうとしたが、二人はもう走りだしていた。二人の背中が廊下の向こうへ消えていく。怜香は慌てて叫んだ。
「デバイス見つけたらすぐ追いつくから!」
先頭を走る都は、ガスマスク越しにコワイの姿を探していた。
「山の方へ逃げるのはありえん」
逃げる前の一瞬、コワイとかいう奴の血走った目がこちらをじいっと見据えていた。
ゆがんでつり上がったその眼には、はっきりと殺意がうかんでいた。まだ何か手を隠しておる、と都は考える。
根拠などなにもない、ただの勘であった。が、致死性のガスを相手が使えると分かった今、自分の勘が外れていなかったことを悟る。
走る都の背後から、ぼき、と何かが折れる音がした。都はおろしていた刀を振りかぶり、背後に向かってひと薙ぎした。ざく、と肉を断ったはっきりとした手応えがある。
ごとりと鈍い音がした。鉄くさいにおいが辺りを満たす。横を見ると、狒狒の大きな首が地面に転げている。きいい、と別の狒狒が鳴く大きな声がした。
都はじろりと周囲を見る。木々の葉の隙間にうごめく黒い影を発見するのに時間はかからなかった。なるほど、頭の上から来たか。よほどコワイの邪魔をしてほしくないと見える。
「木のそばから離れい!」
都は後ろの和泉に向かって怒鳴った。逃げようにも、たどってきた道には中庭の樹木がずらりと生えている。下を通りがかったとたん、上から狒狒に飛びかかられるのは目に見えていた。多少数が少なくとも、中庭中央を突破したほうが成功率は高そうだ。
「小賢しいまねをしおってからに。寄らば、斬るぞ」
都はぶんと刀を振り回した。しかし、狒狒たちもすでに学習しており、都の回りをひょいひょいと飛び回る。あっちにいけば今度はこっち、とめまぐるしく振り回され、さすがの都も息があがってきた。
「数が多い。別の道からゆくか」
「街路樹の密集地を引き返すのは自殺行為や」
「林じゃから危険なのじゃろ。全部まとめて切り払えば問題あるまい」
「確かに頭上からの攻撃は減るがなあ、その分足場が悪くなるわ。結局逃げるのが遅くなって同じことや」
話しながら二人はかたまりになり、目の前の狒狒をやり過ごしている。そうしなければ、四方八方から襲いかかられてあっと言う間にあの世行きだからだ。無線で応援を求めたが、今はどこも手一杯、応援などくれないかもしれない。
何かないか。活路を求め、周囲に目をこらした都は、自分の目を疑った。緋色の、大きな柱が天に向かってにゅうと生えている。その鮮やかな赤は、淡い緑と白がモチーフカラーの鈴華ではいっそすがすがしいくらい悪目立ちしていた。
その巨大な柱が、ぐらりとかしいだ。安定が悪いらしく、自分の重みに耐えられなかったようだ。ふうと角度が変わり、みるみる間に柱が作る黒い影が都たちの上に落ちてくる。
「危ない!」
都はとっさに、猿の一番少ない方向に逃げ出した。和泉もあわててそれに続く。間一髪、横手に逃れられたところでずうん、と鳩尾に響く重い音がした。地面が揺れ、狒狒たちも受け身を取るので精いっぱいの様子だ。
砂煙がおさまると、目の前に直径数メートルはあろう大きな柱が横倒しになっている。しばし、二人ともぽかんと口をあけてことの次第を見守っていた。が、その巨大な柱は皆が見ている前でするすると、煙のように小さくなって消えていった。
「あれは、何じゃ?」
人間側は突如出現し、唐突に消えていった柱にあっけにとられている。数匹柱の下敷きになって潰れているものの、立ち直りは狒狒たちの方がはるかに早かった。ぱっと起きあがったが早いかもう飛びかかってくる。都は危うく顔を思い切りひっかかれそうになって、体を退いた。
結局あれはなんだったのだ、助けられたのは間違いないが。考えても誰も答えてはくれなかった。
答えのかわりに、どうどうと大きな川の音が後方から聞こえてきた。見ると、街路樹一本一本が、下から吹き出した水に突き上げられ上に伸び上がっている。噴水にしては突き上げる水の勢いに容赦がなく、街路樹の枝も折れよとばかりに吹きあがっていた。
狒狒たちもこれにはひとたまりもなく、あるものは水の勢いに負けて、またあるものはしがみついた枝ごと折られて地面に激突する。
こんな味もそっけもない噴水があったかのう、と都は首をかしげた。自宅に一個あると、不審者撃退に便利かもしれない。
囂々(ごうごう)とうなりをあげる水しぶきの中を、馬が走ってくる音がした。




