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青の魔石を前に、ルクスは一人、座り込んでいた。
周りには魔石に彫り込んだ魔法陣の設計図、そしてその設計にした根拠となる理論と実験データをまとめた資料が散らばっている。自分の頭の中を整理するためと、彼女へ説明するために用意したものだった。
「なんでこうなるかな・・・」
落胆は否めない。
彼女は自分と同種の人間であると思い込んでいた。目を輝かせて話を聞いてくれると信じていた。しかし、それらが勝手な妄想であったことを今は認めざるを得ない。
事実、彼女はルクスを拒絶して、大事な研究成果を破壊しようとさえした。そのことが、ルクスの中で思いのほか大きな衝撃を持ち、頭が麻痺を起こしているようだった。
(エメは、つらくないんだろうか)
知りたいことを知らないままで生き続けること、何よりも、関係ない死人の憎悪を喚かれ続けること。
考えればまた聞こえ始める。
「ぅ・・・」
殺せ、と囃す声の渦。耳を塞いだとて止まらない。
耐え忍び、やがて渦が少し収まった頃に、息を吐く。
「・・・なんか、どうでもよくなってきた」
本当にこの魔法陣が合っているのか、成功するのかどうかさえも。考えるのが億劫だった。
完成させた時は心が震えるほど歓喜したものが、今はなぜか、ただの面倒な代物に過ぎなく見える。
とっとと事を終えてしまいたくなり、魔石に手を伸ばした。
『ルクスっ!!』
ポケットから怒鳴り声が響いた。
取り出すと魔法陣の刻まれた魔石が、声の抑揚に合わせて明滅している。
『エールアリーを制圧したぞ! 早く来い!』
それは、宮仕えをするようになっても気まぐれに行方をくらますルクスが、王にしつこく要請されて渋々作ってやった通信機だった。
血気盛んな若きガレシュの王は、自ら兵を率いて前線にいる。
ルクスは無視してしまおうと思ったが、
『準備が整い次第、侵攻を始める。お前の大好きな《実験》の時間だ。遅れるなよ』
一方的に、通信は切れてしまった。
ルクスは溜息を吐く。
「・・・どいつもこいつも、うるさいなあ」
ややあってから、彼は杖を携え、ふらりと部屋を出ていった。
**
穏やかな午後の陽気に反し、トラウィスの王宮内は物々しい。
甲冑の音、軍馬の嘶き、議場で喧々諤々と飛び交う臣たちの声。アレクセイは王の隣席にあり、それらに耳を傾けていた。
ガレシュ王国から宣戦布告と降伏勧告が届けられたのが、つい数時間前のこと。そのさらに前の早朝に、彼の親友の姉から、いち早く情報がもたらされた。
混乱の波はあっという間に王宮を飲み込み、現状に至る。
常軌を逸したガレシュの軍事行動に、誰もが信じらない思いで顔を青ざめていた。
「このまま開戦を?」
「早まるな。状況を確認してからでも遅くはあるまい」
「遅いに決まっている。すでに宣戦布告をされたのだ、果たしてどこまで侵攻しているか」
「開戦すれば姫の御身柄が危うくならぬか」
「ティルニへ軍事要請をすべきでは」
空気が浮つき、臣の口もよく滑る。その中で、アレクセイは殊更に寡黙であった。
「かの魔道具の存在は、確かなことなのか」
誰かが、疑念を漏らした。
場が恐々としている最たる原因の情報は、内容に多少の差違はあれど、ガレシュの使者と彼女の両方からもたらされた。
ガレシュからのみであればいざ知らず、自国の専門家たる者が直接見聞きした情報であれば、信憑性は高いと判断されるべきである。
それでも、疑惑を抱く者はいた。
「こうは考えられませんか。魔道具は我が国に降伏を促すための虚偽であると」
「では拉致された魔技師の勘違いであったと?」
「あるいは、我らにその存在を信じさせるための虚偽」
どよめきが場を支配し、議論が一時止まった。
言い出した者はより声高となる。
「意図せずガレシュの魔技師と親交があり、ガレシュの行軍に合わせるようにエールアリーへの出張を願い出たとするのは、あまりに不自然。あの者は、もとよりガレシュの間者だったのでは?」
男は思案するように、八の字の口髭をなでつける。
「とすれば、魔石の日用品への転用推進も、姉を貴族の家へ送り込んだのも策謀のうちだったのでは」
「――はっ」
途端、老兵が大笑した。
議場の机に兜を置いているガレウス大将軍が身を揺すれば、鎧も主に賛同するようにうるさく鳴り出す。
「あれほど悪目立ちする間抜けな間者がおると申すかよ!」
最高の冗談を聞いたとばかりに膝を叩く老兵に、男は顔を強張らせた。
「姉妹ともども間違いなく、我が領内で生まれ育ったトラウィスの子らですよ」
さらに、レナード宰相が柔和に続けた。
「貴殿は報告をよくお聞きでないらしい。あの子は降伏など微塵も勧めてはおりません。降伏しようがしまいが、このままでは三国が等しく滅ぶと申したのですよ」
「・・・平民の娘に過ぎぬ者の言を鵜呑みにされると?」
結局のところ、疑念の理由はその一点に尽きることを男は露呈した。
「その平民の恩恵に、欠片もあずかっていない者がここに一人でもいるでしょうか」
宰相が視線で議場のシャンデリア型の照明を指す。
貴族も平民も、今や王都では魔道具を目にしない日はないほどだ。
「これまでのかの者の献身こそが信用の証とはなりませんか」
「・・・お言葉ながら」
その時、大将軍の手元の魔石が光った。
『伝令ーっ! ガレシュ軍、エールアリーを占拠中! 街の周囲に柵を築いてます! 進軍の様子はまだなーし!』
風の唸る音と共に、太い男の声が議場に響き渡る。
よく耳を澄ませれば、『カルロさん揺らさないで!』と必死に乞い願う少年の悲鳴も背後に聞こえる。以前に空飛ぶ板に試乗した際、場にいたエメの後輩の、確か名はティフだったろうかとアレクセイは思い出す。
彼女の連絡を受けてすぐ、限界まで速度を高めた改造ホバーボードに整備担当の魔技師と物見の兵が乗り込み、エールアリーへ飛んだ。そしてエメが残したメモをもとに、フィンが即行で仕上げた通信機によって、半日も待たず伝令が王宮まで届けられたのである。
「これもあの子のお陰ですよ」
周囲に説明した後、宰相は男を見やる。
しかし、相手は「ならば」とまだ不満の声を上げた。
「無論、危機を招いた責任は彼女に問わねばならない」
場に響いたのは臣ではなく、王子の言葉だった。
アレクセイの静謐な笑みには誰に対する敵意もない。
存在が大きくなり過ぎた平民を嫌悪する者、擁護する者の両者とも、等しく王の忠実な臣であることを、彼はよく知っていた。
「すべては大地が無事に残った後の話だ。彼女はすでに責任を果たすため動き出している。我々もこれ以上、座してはいられないだろう」
席を立つ。続けてガレウス、さらに他の幾人かが立ち上がる。
アレクセイは、覚悟を決めていた。
「陛下。どうか私に出陣のご命令を」
**
戦支度の慌ただしさは軍部のみに留まらない。
魔法研究所では数十年ぶりに軍部の指揮下に入ることを通達され、大いに混乱を来していた。
本来の魔法使いは軍人であり、普段から攻撃魔法を中心に研究をしているとはいえ、まさか己の代で戦争が起こることなど、誰も予想だにしていなかったのだ。兵士のような胆力を積んでいるわけではない貴族の子女には、突然の招集におろおろするしかない者が多くいる。
テオボルト所長は、オフィスでそんな部下たちの様子を見回し、普段と寸分変わらぬ淡々とした口調で問いかけた。
「前線に志願する者はいるか」
皆が息を呑む。ざわめきが去り、引き潮のごとく後ろへ下がっていく空気の中、一人、微塵も臆せず前に出た。
「私が」
リーヴィス、と誰かが震える声で呼んだ。
クリフォード・リーヴィスは振り返り、鮮やかな紫色の双眼に同僚たちを映す。
「我らが貴族と呼ばれる所以は今この時にある」
腹からの声が空間を揺らした。
「国のため、真っ先にその身を盾とし剣としたがゆえに、我らの祖先は偉大であったのだ。その血を引く者が身を惜しんで何とする。王と民を守る役目こそが我らの誇りだ」
称号は所詮、飾りに過ぎない。彼の血は平民と同じ色をし、中身において明確な差などない。それでも貴族が貴族と名乗る所以は、その生き様を表明するため。
身命を賭して国に尽くすことを、民衆へ宣誓するためである。
「クリフォードは無意味な名ではない」
たった一つの信念こそが、家に依らない己の価値。
引き潮のようだった空気がクリフォードの言葉に引っ張られ、じんわりと熱を持って寄せて来る。
その中で、クリフォードはなおも尻込みしている者を一人、ねめつけた。
「逃げるな、メリリース」
実際にそうしようとしていたわけでなくとも、彼女は小さく肩を跳ねさせた。集団の後方に隠れる友人へ、クリフォードは厳しく迫る。
「ここでお前の力を活かさずどこで活かす。わかっているのだろうが?」
「・・・わ、わかってるわよ! 行くわよ! やってやるわよ!」
やけくそになってメリリースは言い返したが、その実、体は震えていた。
国一番の強力な魔法使いとなろうが、他は地方貴族の娘に過ぎない彼女の中には、力に見合う自信も大それた覚悟もありはしないのだ。
すると、体の脇で固く握りしめられた右の拳に、そっと触れる指先があった。
「僕も行く」
優しい笑みを浮かべて、マティアスは驚くメリリースを見つめている。
「・・・何言ってるの、あなたは魔法使いじゃないでしょう!?」
「うん」
「ピクニックに行くのとは違うのよ!? 戦場なのよ!? わかってる!?」
「わかってる。それでもクーイーはいつだってレインの傍らにいた」
マティアスと同じく、魔法を使えなかった偉大な魔法研究者は、史上最強の魔法使いの最も信頼するパートナーだった。
「メリーが得意な魔法の型はすっかり覚えてる。たとえこの身が非力でも、戦場で君のための魔法を創るから、こんなことしか僕にはできないけれど、少しでも君の助けになれるなら、火の中にだって付いて行きたい」
メリリースは言葉に詰まった。ひ弱な幼馴染が、あまりに強く訴えるから。
ついこの間まで、彼は彼女よりも小柄だったのに、今は悪癖だった猫背が伸びて、卑屈な印象が穏やかな雰囲気に変化し、つっかえながらおどおど喋ることももう、ほとんどない。
外の世界に恐怖していた少年は去り、彼は彼女に手を引かれずとも望んだ場所に立てている。
「どうか僕を君のクーイーにして。どんな時も傍にいさせて」
メリリースはしばらく唖然とし、少しだけ見惚れて、最後はきりりと眉を吊り上げた。
「――だったら、絶対に離れないで」
「必ず」
彼女は強く、彼は柔らかく、互いの手を握りしめた。




