買い物へ出発
「もう、何やってたの? ちゃんと帰ってくるって言ってたでしょ!」
案の定、帰りが遅いことを咎められた。夕方だったら時間が遅くなる前に、裕美の母親が「もう帰らないと、お母さん心配するわよ」と声をかけてくれるが、昼間だし帰る時間を知らないので、当然それはない。
「ごめんなさい、もう行くの?」
「そうよ。お母さんもすぐに行くから、車のとこに行ってなさい」
「はぁい」
涼子は自家用車の停めてある、隣接する藤崎工業の方へ向かった。
今日は七月二十一日で木曜日だ。涼子たち子供は夏休みだが、大人にとっては平日である。しかし、藤崎工業は休日だった。
これはどうしてかというと、仕事の段取りの関係で昨日から空きができてしまった。しかも来週から大掛かりな仕事が入ってくるため、来週は毎日残業の予定だ。人も数人連れてくるらしい。そうなると当分休むこともままならない可能性があるため、今の内に休んでおこうとなって、昨日と今日は休みになった。
去年はこういう時でも、無理にでも仕事を作って働いていたが、一年やって程度がわかったのか、休みにしている。
明日からまた仕事で、日曜に一日休みを入れて、あとはひたすら休みなしの仕事に入るという。どうにか盆までには終わらせたいという考えのようだ。
藤崎工業の敷地には、会社のトラックとライトバン、そして敏行のマイカー、軽自動車が停めてある。ちなみに車種は、トラックがトヨタ「トヨエース」昭和五十五年式で、ライトバンは三菱「ランサーバン」昭和五十一年式だ。いずれも中古車である。
見ると翔太がトラックをじっと眺めていた。翔太はトラックがお気に入りだった。涼子にはこのボロっちいトラックのどこがいいのかさっぱりわからなかったが、翔太には何か魅力的に映るようだった。
「おい涼子、帰ってきたのか。遅かったな」
敏行が涼子を見つけて声をかけた。
「うん、ごめんなさい」
「お母さんは?」
「まだ家だと思う」
「またか……」
敏行は妻が遅いのにウンザリした。やはり奥様はスーパーマーケットへ買い物に行くだけでも、ちゃんと身なりと化粧に余念がないのだ。もちろんいつもより化粧は濃い。口紅やアイシャドウが目立つ。このせいもあって準備が整うのはいつも遅かった。
――いつも「すぐ」って言うくせに、遅いんだよねえ……。
涼子は家の方を見ながら、ため息交じりに思った。そうしていると、家の方からおめかしした真知子がやってきた。
「さあ、行きましょ」
「……お前なぁ」敏行は呆れ顔だ。
「え? どうしたの?」しかしそれがよくわかっていない真知子。
「なんでもないよ。ほらチビたち、乗った乗った」
敏行は信号待ちで停車している時、車内をジロジロ見回していた。
「あら、どうしたの?」真知子が言った。
「そろそろかな、この車も」
「車がどうしたの?」
「もうすぐ車検だろう。大分ガタもきたし、そろそろ買い換えた方がいいかもな」
「車は高いでしょ。お金ないのに勿体無いわ」
「そうは言うが、走っているときに故障して事故になっても困るだろう。涼子の生まれた翌年に買ったから、もう七年くらいか? そもそも中古だしなあ。そういや、曽我さんとこはコロナマーク2だよな。新車だし、俺もああいうのに乗りたいもんだ」
このホンダ・ライフは古く、昭和四十六年式だ。すでに十二年落ちの中古車である。
コロナマーク2はトヨタの中型クラスのセダンで、一ランク下のコロナの上級モデルとして、昭和四十三年に登場した。来年の昭和五十九年にフルモデルチェンジした際に、コロナの名称が外れて、「マーク2」という車名になった。「チェイサー」、「クレスタ」という兄弟モデルまで登場させ、一時代を築いたセダンだ。現在は「マークX」という車名に変わって販売されているが、セダンの不人気もあって存在感は薄い。。
トヨタのセダンは、クラウンを頂点に、マーク2、コロナ、カローラと四つのランクに分かれて、若い頃はカローラから始まり、出世して給料が上がると一ランク上の車に買い替えるという、まさに「いつかはクラウン」という流れがあった。
しかしセダンの人気がイマイチな現代においては、このスタイルはもう廃れていると思われる。
だが、まだセダン志向の強かったこの時代では「いつかはクラウン」という考えは多くの人にあったのではないかと思う。
敏行もこの考えがあり、まずはカローラを買って、もっと会社を大きくして次はコロナ……と密かに夢を持っていた。
「そうは言ってもねえ……もうちょっと乗れないの?」
真知子は事故という言葉を聞いて、少し躊躇した。しかし自動車は高額な製品だ。そう簡単に購入とはいかない。
「まあ、この秋にもかなり大掛かりな仕事があるんだ。それの具合見て決めてもいい」
敏行は割と鷹揚だった。というのも、この大きな仕事は結構な儲けが期待できる上に、今後も定期的に受注できそうな仕事で、これをこなせば長期的にも安定した業績アップが見込まれ、ひいては家計にも余裕ができそうだった。春頃にも大きな仕事の打診が取引先からきている。うれしい悲鳴だった。車……しかも念願の普通車――新車のカローラを買うことができる時も近いと思っているのだ。
「まあ、ねえ……」真知子は言葉を濁した。判断に迷ったようだ。
涼子は両親の会話を聞いて、少し気分が沈んでしまった。あまり思い出したくないことを思い出してしまったからだ。
その時、ふと敏行の運転するカローラに乗って、家族四人で出かける姿がふと思い浮かんだ。場所はどこだろう? 海沿いの道路だ。
――あれ? これは……どういうことなんだろう。単なる想像にしては鮮明だった。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
「え? ううん、なんでもないから。なんでもない」
突然尋ねられ、ちょっと狼狽気味の涼子。その様子を見た真知子は、「具合悪いの? 大丈夫?」と心配そうに言った。
「ううん、ぜんぜん平気だもん。それより、新しい麦わら帽子だよ。天満屋だよ。このリボンが水色で――」
「はいはい、分かっているわよ。ちゃんと天満屋に行くから」
娘が帽子を買ってもらうのを心待ちにしている様子が、特に問題なく元気そうで、少し安心したようだ。ちなみに涼子が欲しいという麦わら帽子は、別に天満屋ハピータウンでなくても買える。が、涼子は天満屋でしか見ていないから天満屋にこだわっている。
「さあ、着いたぞ」
敏行はそう言って、駐車場に入っていった。




