風呂場にて
涼子はずっと考えていた。今、この世界のことを。
「涼子、いるの? 早くお風呂に入りなさい!」
真知子の声が聞こえる。しかし涼子は、子供部屋でただひとり、じっと考え込んでいた。居間の方からテレビの音が小さく聞こえてくる。外から自動車の走り去る音も聞こえた。しかし、そのどれも涼子の耳には届かない。涼子の思考は、昼間の悟の話のことだけに占領されている。
「涼子! 早くしなさい!」
「は、はぁい!」
真知子の怒気を含んだ声がして、すぐに思考を中断した。どんなにシリアスに考え事をしてても、やっぱり親には敵わない。本格的に怒られる前に、慌てて箪笥からパンツを一枚取り出すと、すぐに風呂場に直行した。
藤崎家は、シャンプーなどの風呂用品はすべて共用だ。下着や寝間着などの着替えだけを各自で持って風呂場に行く。バスタオルは真知子が風呂場に用意してくれている。しかし特に、これが誰のとかいう決まりはない。
涼子はよくひとりで入っている。幼稚園までは基本的に父か母のどちらかと一緒に入っていたが、小学生になった今はひとりで入ることが多くなった。また、時々翔太とふたりで入る時もある。今日は翔太は敏行に入れてもらったようで、今日はひとりで入れる。何せ、家の風呂は狭い。涼子と翔太だと、共に小さいのでそれほど狭さを感じないが、それでもひとりで入る場合は、やっぱり違う。ちなみに、真知子は体を洗ってくれるが、口うるさい。敏行は適当なので楽だが、ひとりでゆっくり浸かりたいらしく、あまり子供と一緒に入ろうとしない。それでよく真知子から文句を言われていた。
藤崎家の風呂はシャワーなどない。また、湯が出る蛇口もないため、体にかける湯は湯船から汲む。なので、体を洗うのに湯を沢山使うと湯船の湯が減ってしまい、足さねばならない。しかし蛇口からは水しか出ないので、水を足すと湯船が冷める。なので、風呂の湯沸し器で再び湯船を温めるということになる。
翔太と敏行がすでに入っていたせいもあって、やはり減っていたので、湯船に水を足しながら湯沸し器のスイッチを入れた。
涼子は風呂桶で、湯船から湯を汲み出して体にかけた。すぐにもう一度湯を汲み出して、今度は頭からかぶった。
「涼子、ちゃんと背中も洗うのよ」
真知子の声が聞こえる。日課のように、毎日風呂に入っていると言われる。もちろん、ちゃんと洗っているが必ず言われる。子供だし、適当にするんじゃないかと思われているのだろう。
「はぁい」しょうがないので一応返事をした。
涼子はスポンジに石鹸をつけて、スポンジを泡立てた。そして体を擦っていく。髪も含めて全部洗うと、早速湯船に浸かった。初めから水かさが減っていたこともあり、ちょっと少ないと感じた涼子は、蛇口を捻って水を入れた。だばだばと勢いよく浴槽に落ちていく水。
ひと息ついて、悟の言っていた話を考えた。
「世界再生会議」なる団体があるという。要はその団体が悪いことをしたから、それに対抗したっていう感じだろう。
涼子としたら、いい友達である悟を信じたい。しかし、悟のいうことがすべて正しいとは限らなかった。再生会議が悪いのかは、悟の主観でしかない。涼子には、その団体の善悪を判断する術を持っていないからだ。涼子の影で、何か色々行動しているという。確かにおかしな気配を感じたことは、ないわけではない。しかし、そんな連中がいるとか言われて、信じる方がおかしい。
涼子はひとつ、気になっていることを考えた。悟はどうも、涼子が「見た目そのままの女の子」だと考えているようだった。
しかし涼子は、「前の世界」の記憶を持っている。平成の時代を知っている。その時は藤崎涼太という男で、あまりいい人生ではなかった。しかし悟は、そうは思っていないと考えられる。もし涼子が、未来を知っていると言う悟と同じであるならば、あんな細かく説明する必要はない。世界再生会議とかいう、よくわからない団体のことだとか、そういう関係のことだけでいいはずだ。
ということは、涼子の現状は、悟の思惑通りにはなっていない、ということになる。これは憶測ではあるが、悟は――悟のいう本来の涼子――に戻して、そのまま本来の状態のままの未来へ向かわせようとしている。
しかし涼子は、涼太の記憶のまま、ここにいる。悟のやり方が悪かったのか、その再生会議とかいう連中に密かに邪魔されたのか……。
自分がこの過去に戻ってしまったことの理由が、一応はわかったものの、まだ不明な部分は多い。
――そういえば、悟は……悟くんはどうどうなんだろう? 金子くんが、悟くんのこと、杉本とか言っていたけど……。
金子芳樹は、悟を杉本博士と言った。涼子の知っている人物で、杉本という苗字の人はいない。
考えられるもののひとつは、結婚だ。前の世界の聡美が、今の悟だったのなら、悟は涼子とは反対に女の子だったということになる。ならば、過去に戻る前の二〇一七年ではもう四十代のはずだし、結婚して苗字が変わっていてもおかしくない。そして、杉本という男性と結婚していたということ。金子芳樹が悟を杉本と呼んだのは、金子芳樹も前の世界を知っているからということではないだろうか。
だとしたら、金子芳樹も未来の記憶を持ったままこの過去にやってきている、ということになる。これはおそらくそうだろう。放課後の悟とのやりとりや、悟の話からして、金子芳樹は世界再生会議という団体の関係者であろうことは間違いないだろう。
……ずっと考え込んでいると、突拍子もないことだらけで、頭がおかしくなってきそうだ。そう頭がぼぉっとしてくる。
――うんっ? ぼぉっと……って、のぼせてる?
そう思って、ふと風呂の様子がおかしいことに気がついた。
「あちちちっ!」
沸かしたまま放っておいたので、沸きすぎて熱くなってしまった。この風呂の湯沸し器には自動温度調整なんてできない。このくらいでいいな、と思ったら自分で止めないといけない。でないと沸騰して入れないくらい熱くなるのだ。
慌てて湯船から飛び出て、すぐにスイッチを切った。ドタドタと音がするので、何事かと真知子がやってきた。
「あ、お母さん」
「涼子、何を騒いでいるの? ――何をしてるの、のぼせる前に出なさいよ」
「……う、うん。もう出るから」
――ふぅ、やれやれ。
涼子は風呂からあがって、体を拭きながら考え事の続きをした。
涼子が「タイムマシン」を作ったと悟は言った。そんなものが作れるのだろうか? ちょっと信じがたい。ましてや涼子なんて天才でもなんでもない、ただの庶民の子供だ。親は頭のいい、もしくは高学歴な人ではない。どちらも高卒で頭がいいわけでもない。そんな親の子供なのに、そんな漫画の天才科学者みたいな真似ができるとは思えなかった。
ふと、そんな時、頭に見知らぬ記憶がよぎった。
どこかの研究所で、数人の男女が何かの機械を組んでいる。機械を組み立てているとは言っても、皆、工場の工員というよりは、科学者のような人間だ。そのうちのひとりがこちらを見て言った。
「先生、こっちは終わりました」
「わかったわ。そっちはどう?」
「もうちょっとです。すぐできますよ」
とても複雑な機械だ。ゴチャゴチャした機械部品の塊が、狭い場所に押し込められている。
「さあ、これで完了です。今度はうまくいくといいんですが……」
「可能性は諦めない。きっとうまくいく。そう信じて、進んでいくのよ」
「はい、及川先生。我々もそのつもりでです」
「――さあ、始めるわよ」
涼子の記憶の再生が終わった。
――これは? これは一体、なんの記憶だろうか? 及川先生……と呼ばれていた。及川とは? 悟のこと? いや、どう考えても――自分、藤崎涼子がそう呼ばれていた。どうして?
悟と聡美の関係も、悟が杉本と呼ばれていることも、未だよくわからない。その上、涼子が及川と呼ばれている、覚えのない記憶が甦ってきた。一体、なんだっていうのだろう? 最近、どうしたんだろう。
涼子は、次々に出てくるわからないことだらけの現在に、次第に恐ろしさを感じてきた。
パタパタと足音がして、脱衣所の引き戸が開いて、真知子が現れた。
「涼子、いつまでも裸で何やってるの。風邪をひくから、早く服を着なさい」
「はぁい」
涼子はそう返事すると、真知子は戸を閉めて出ていった。
悟にいろいろと聞かされて、不明だったことが判明するどころか、ますます不明なことが出てきた印象だ。この先、どうなるんだろう……涼子の胸に、一抹の不安がよぎった。




