この世界について
ゴールデンウィークも近い、四月の下旬。涼子は悟の家に遊びに行った。悟の家は新築らしく、とても綺麗な家だ。悟の父は医療機器の大手製造メーカーに勤めているらしく、お金持ちというわけではないにせよ、安定した収入と将来が約束されていた。借金して自営業を始めた涼子の父――敏行とは大きな違いだ。
すでに二、三回来ているにも関わらず、いつも、この二階建ての綺麗な家を羨ましく眺めてしまう。
「涼子ちゃん、上がって」
笑顔で迎えてくれた悟に、涼子も笑顔を返す。上がると、二階の悟の部屋に通される。悟の部屋は二階にあって、しかもベランダがついていた。ベランダに出ると、涼しい風が涼子の頬を撫でて心地いい。悟の家に遊びに来ると、いつもこの、憧れのベランダに出させてもらうのだ。悟は不思議そうな顔をしていたが、庶民の子供はベランダ付きに憧れるのだ。この間一緒に遊びに行った奈々子たちも羨ましそうだった。
悟の母親がお菓子を持って部屋にやってくる。綺麗で優しい、誰もが羨ましいと感じる母親だ。涼子の母――真知子も綺麗な容姿をしているが、いつでも優しいらしい悟の母とは違って、すぐにガミガミ怒る。その違いは結構大きかった。それに悟の父は、とてもハンサムだった。この間偶然会って初めて見たが、すらりと背が高く、糊のきいた清潔な背広と、爽やかな笑顔が格好いいのだ。涼子の父――敏行は背は高いが瘦せぎすで、汚い工場で、油と埃にまみれた作業服で汗水垂らして働いている。涼子は、それも立派で大切な仕事だということがわかっているが、スマートな悟の父が羨ましく思えた。家だってそうだし。
「涼子ちゃん。いつも悟と仲良くしてくれて、ありがとうね」
悟の母は、穏やかな笑顔で涼子に声をかけた。
「は、はい。悟くんはお友達ですから、それであの――」
少し緊張してしまったのか、よくわからないことを口走る涼子。
「ゆっくりしていってね」
悟の母は、そう言って部屋を出た。その姿をじっと見ている涼子。
「おばさん、とっても綺麗だね」
「ありがとう。お母さんはね、僕の自慢でもあるんだ」
「ふぅん、羨ましいなあ……」
そんな涼子を見て、悟が真面目な顔をして話を切り出した。
「それでね、今日……涼子ちゃんに知っておいてもらいたいことがあるんだ」
「知っておいてもらいたい……って?」
「うん。僕の言うことを、どうか聞いてほしい」
悟は真剣な眼差しで涼子を捉えると、とても小学生とは思えないほど落ち着いた物腰で話し始めた。
「聞くって……それはいいけど、本当に悟くん? なんだか雰囲気が……」
「涼子ちゃん、君のことなんだ」
涼子の言葉に構わず話を続ける。
「ええ?」
驚いた反応を見せつつ、内容は多分――数日前の、金子芳樹との不穏な会話の内容と関係があることではないかと、頭にひらめいた。そして、それは正しかったようだ。
「まず率直に言うよ。――涼子ちゃん、君の周囲に悪い人たちがいる」
「悪い人?」
涼子は不安そうな表情をした。
「そう。その悪い人たちは、「世界再生会議」というグループを作ってるんだ。これはまだ、まったく聞いたこともないはずなんだよ。当然なんだ。まだ作られていないのだから」
「作られていないって……え?」
訳がわからない。まだ作られてもいない団体が自分の周囲にいるとか。しかし、その団体のメンバーは……もしかすると金子芳樹がそうなのだろうか、と涼子は考えた。
「なんで作られてないのに、作ってる? わけがわからないけど……」
「ははは、ごめん。僕って説明は苦手なんだ。……信じられないかもしれないけど、僕は未来を知っているんだよ。来年、京大で、増田智洋という男が、親しい者たちとともに結成する。それが、さっきの『世界再生会議』っていうグループなんだ。地球環境の悪化を憂いて、それを正そうと活動するという目標を掲げていた。この「世界再生会議」はすぐに拡大していった。当初五人で結成したが、半年後には十倍――五十人を超えていた。膨張した組織は、すぐさま具体的な役割を作り、増田が議長の座について、再生会議を統率した。そんな中、彼らはある技術を手にした。……そして、彼らは行動を起こしたんだ」
悟は話しつつ……正直なところ、小学二年生には明らかに難しいな、と思った。しかし、噛み砕いた言葉で言っても、何がなんだかわからなくなりそうだった。だったら難しくても、ちゃんとした言葉で話したほうがいい。悟は、涼子は同年代の子供と比べて、頭がいいと思っている。すぐには理解できなくても、時間とともに理解できる部分もあるだろう。
「何をしたの?」
「過去に戻したのさ。自分たちに都合のいい世界に作り変えるために」
「過去……?」
涼子は首を傾げた。悟はSFもののアニメでも見て、その気になってるだけじゃないか、と思った。それでも先ほどの話は、小学生の語る話ではないと思ったが。
「わかりにくい話だとは思ってるんだけど。でも、例えば今から僕たちが幼稚園の頃にもう一回戻るだとか、そういうことをしたんだ」
「ふぅん……」
涼子は曖昧に答えた。しかし悟は構わず話を続けた。
「再生会議は、実際に、過去に戻って都合のいい世界に変えた」
「どうやって?」
「そこで涼子ちゃんが関わってくるんだ」
「えっ、私が?」
唐突に、自分がが関わっていると言われて驚いた。
「そう。彼らは『過去に戻る装置』を手に入れたんだ。それは……そうだ、ドラえもんは見てるよね。ドラえもんに、タイムマシンが出てくるだろう。未来から、現代にいるのび太くんの机の引き出しに――」
「ああ、タイムマシン!」
「そう、ああいう形のものではないんだけど、簡単にいえばタイムマシンなんだ。それで――そのタイムマシンを作ったのが、君――涼子ちゃんなんだ」
「え?」
涼子は耳を疑った。悟は、涼子が『タイムマシン』を作ったと言う。どこをどう生きていたら、そんなSF映画みたいなものを作れるようになるのか? まったく見当もつかなかった。
「あ、あの……悟くん? 私……そんな」
「信じられないのはわかるんだ。まだ小さいし、未来の話なのだから。でも聞いて欲しい。涼子ちゃんは、この先……そう、三十年くらい後の未来に、それを作った」
悟は、真剣な眼差しで涼子を見た。そこに冗談などつけいる余地はない。彼の眼の輝きは、まさに本心だった。
「涼子ちゃんは、それを悪用されてはいけない、と考えて、そのことを隠した。しかし、どこからかそのことが知れてしまった。そのために、奴ら――再生会議の連中から、そのタイムマシンを使わせて欲しいと頼まれた。でも、涼子ちゃんは断った。そして、奴らの手に渡らないように様々な対策をした。涼子ちゃんは優れた人だ。できることは何でもした」
あまりのことに、頭が少し混乱しているような気がするが、それでもこんなフィクションみたいな話が本当にあるのか。そもそも普通、小学二年生に理解できる話なのか? いや、もしかすると小さいからこそ、こんな荒唐無稽な話でも信じやすいと考えてのことなのか?
「……ふぅん、なんか、すごいんだね。未来の私って」
「そうだね。とてもすごいし、素晴らしい人だよ」
悟は微笑んだ。
「しかし、タイムマシンを正攻法で手に入れられないとなると、再生会議の連中は力尽くで奪おうとした」
「力尽くって……?」
涼子は恐る恐るつぶやいた。
「そう。未来の君を誘拐したんだ」
「えっ、誘拐?」
「そう。そして、君の記憶を覗き見て、どうやったら自分たちに都合のいい未来にできるか考えた。そして、君の作ったタイムマシンを使って過去に戻った」
それが本当の話なのか、涼子にはわからない。しかし、どこか気味が悪いほど、それが現実の話なのではないかという直感があった。
「今がその……戻っちゃった……の?」
「ううん、一度、再生会議の手で戻っていたのだけど――僕たちは、それを再び戻したんだ。正しい未来に戻すためにね」
涼子はそれを聞いて、思い当たる節があった。七年前、涼子として生まれてくる前、涼太だった時。寒さで意識が朦朧としていたなか、何かをされていた。あれは……あれは、その『タイムマシン』といったようなものだったのではないだろうか? だとしたら、その時の奴らが世界再生会議という連中なのか?
「一度、再生会議によって変えられたが、僕たちは、ある時それが変えられた世界だということに気がついた。そして僕たちは――君に対して、元の世界に戻すための行動をした。その結果が、この今の世界なんだよ」
――私に何かをした。……それはあの『涼太』の時のことなのか? だったら、あれは悟たちなのだろうか? これは――どういう……。
「涼子ちゃん?」
「え? あ、ああ……えっと」
「難しい話ばかりでごめんね。漫画みたいな話だけど、全部信じて欲しいとは言わないよ。でも、このことを覚えていて欲しいんだ」
「う、うん……」
涼子の様子がおかしい。少し顔が青い。
「大丈夫?」
「う、うん……」
その後、涼子はずっと気分が沈んだままだった。悟は心配して涼子に謝っていたが、涼子にはそんなことはどうでもよかった。
藤崎涼子は、本来の『涼太』から、今の『涼子』へ変わってしまった姿ではなかったのか。涼子は、自分自身ではそう考えていた。
しかし、悟の話だと、『涼子』は『元に戻した』姿だと言っているように思う。それだと『涼太』の方が、例の再生会議とかいう連中に変えられていた、偽りの姿だったということになるのではないか。
涼子は、『涼太』の記憶を持って、今この時間を生きている。それは……今この記憶は、「偽りの記憶」だということなのか。
――私は……違うのだろうか? 間違った存在なのだろうか?




