大人と子供
「よう来たのぅ、真知子さん。それに涼子ちゃんに翔太くんも大きゅうなって……」
祖父は涼子と翔太の顔を見るなり、あっという間に破顔した。可愛い孫が三人とも勢ぞろいしたことで、祖父はもう、嬉しさを隠しきれない様子だ。
「おじぃちゃん!」
翔太が駆けていって、祖父に飛びついた。翔太は、甘々な祖父が大好きだった。
「翔くんは元気じゃあなぁ」
受け止めた祖父は、嬉しそうに翔太を抱きしめた。
「みんな、哲也たちも居間にいるから、さあ上がって、上がって」
祖母も笑顔でやってきた。
居間では敏行と哲也が、出された麦茶を飲みながら雑談している。涼子たちはいない。今は祖父に、家の近くの神社にある林に、蝉を取りに連れていってもらっているようだ。
「兄貴、景気はどうだい?」
「悪くないぜ。というか、忙しすぎるくらいだ」
敏行は、ヤレヤレとでも言いたげに顔を歪めた。
「そりゃ、いいじゃないか。暇で仕事がないことを考えたら、ありがたい話だよ」
哲也は表情を明るくした。どうやら順調なようで何よりだ、と思った。
「まあな。やっぱり売ってくれた大沢さんが、お客さんを紹介してくれたのが大きかったよ。すぐに仕事が来たからなあ」
こういった仕事は、やはり「つて」が重要だ。まずは取引先を掴むことが難しい。しかし、敏行のように知った人を仲介してもらうと、仕事は割と簡単にやってくる。そして、大きなヘマをしない限りは、大抵はずっと仕事が来続けるものだ。基本的に発注元も、特定の取引先にしか仕事を発注しない。「つて」があると、ここに食い込むことができるのだ。
「恵まれてるな、兄貴は。この間、俺の同級生にあったんだけどな、その同級生が最近そば屋始めたんだ。でも全然客が来なくて往生してるって愚痴ってたよ」
「やっぱり、そういう商売は厳しいな。そうそう。照、よくやってるよ。仕事を覚えるのも早いし、思ったよりやるよ」
「そりゃよかった。実際どんなものかちょっと心配だったけど、そうなら安心だ」
哲也はホッとした顔だ。何せ、言い出したのが妻で、一緒に兄に紹介したのだから、どうだろうかと気になっていた。
「最近、アークの練習しているよ。まだまだだが、根気よく練習すりゃあ、仕事を任せられるくらいになるぜ」
「本当かい。そりゃ頑張るなあ」
アークというのは、アーク溶接――いわゆる電気溶接のことだ。溶接母材と、溶接棒の間に電気を通すことで熱し、金属を溶かすことで溶接する溶接方法で、被覆アーク溶接とも言われる。アーク溶接には複数の方法があって、敏行が言っているのは、ホルダーに被覆溶接棒を装着して、この溶接棒を母材の溶接箇所に近づけることで溶接する方法だ。この頃の鉄工所ではどこでも見る非常にポピュラーな溶接である。しかし二十一世紀の現代では、この被覆アーク溶接は主流ではなく、半自動溶接という方式が主流だ。もちろんこの昭和の時代、ましてや小さな町工場の敏行の工場では、被覆アーク溶接が主流だ。
ふと外から、ガヤガヤと賑やかな声が聞こえてきた。どうやら子供たちが帰ってきたらしい。
「チビどもが帰ってきたな」
敏行はそう言って、手に持っていた麦茶を飲み干した。
「なんだ、泊まっていかんのか」
祖父は、敏行が泊まらずに帰ることに不満を感じているようだ。
「忙しいからな。本当は一緒に泊まってもよかったけど、急な仕事が入ってな」
「そんなに忙しいのか?」
「ああ、はっきり言って休みなんてない」
「まあ、敏行。あんまり働き過ぎて、体を壊したら元も子もないわ。大丈夫なの?」
祖母が少し心配そうに敏行の顔を見た。
「大丈夫だって。俺の体のことは、俺が一番知っているからな」
「残念ねえ。でも義兄さん、無理はしないでね」
哲也の妻、弘美が言った。
「後で墓に参ったら、俺は仕事に戻るぜ」
「ねえ、やっぱり一緒に泊まれないの? こんな時くらい……」
真知子は、やはり夫をひとりで帰してしまうことに心配があるようだった。
「そうはいくか。俺はな、借金返して自分の工場をもっと大きくしたいんだ。そのためにはもっと働かんとな」
「あなた……」
敏行は、去年までとは別人のようによく働いている。借金があるから当然といえば当然のことだろうが、それでも働き過ぎなくらいだ。
「子供たちはどこだ? さあ、墓参りを済ませよう」
大人たちはあの様子だが、子供たちは呑気なものだ。いとこ三人で、別の部屋でおしゃべりをしていた。
「ともちゃんは来年、小学生だよね」
涼子は、じゃれてくる翔太をいなしながら、知世に言った。
「うん! ともね、とっても楽しみなの。おじいちゃんが、ともにランドセル買ってくれるんだって」
知世は嬉しそうに話している。涼子にも買ってくれたので、当然知世にも買うのだろう、ということは容易に想像できる。
「そうなんだ、私も買ってくれたからそうだよね」
「うん、それにね。”つくえ”とかね、”ふでばこ”とかね、お父さんが買ってくれるんだよ」
知世は一般的な家庭と同じく、そういったものを買ってもらえるようだ。涼子には買ってもらえなかったものだし、羨ましい限りだが、今はお金に余裕のない時期なため、わがままはいえない。
「いいなあ。ともちゃんが小学生になったら、家に遊びに行きたいな」
「うん! ぜったいきてね。やくそくだよ」
知世の家、要するに哲也叔父さんの家だが、涼子は年に一、二回程度訪ねている。大抵は正月だ。行く度に思っていることだが、涼子はいつも、知世の家が羨ましいと思っていた。知世の家は二階建てだった。そんなに大きな家ではないが、今後もずっとサラリーマンを続けていく叔父の哲也は、割と早々に家を立てた。そして、その家は二階建てなのである。この当時、子供にとって、二階建てはステータスだった。やはり二階があるかどうか、そして自室が二階かどうか。さらに、その二階の部屋にはベランダがあるかどうか。これらがあることで、持たざる者たちに対して優越感が違うのだ。
――やっぱり、恵まれているなあ。
しかし、涼子にとって、今の知世は知らない知世だ。でも、知世には幸せな人生を歩んで欲しいと思う。自分も幸せになる。だから知世も。涼子は知世の無邪気な笑顔を見る度に、そう思うのだ。
「あ、そうそう。ともちゃん、ジローくんを憶えてる?」
「うん。でもずっと、あそんでいないの。いっしょにあそびたいんだけどなあ」
どうやら、ジローは知世とは親密になれてはいないようだ。まあ、それは当然だろう。こんな小さな子たちが、近所に住んでいるわけでもないのに、そう簡単には会えるわけないのだ。考えてみれば、ジローは知世の家を知っているのか? 涼子は教えていないので、多分知らないと思われる。
――ジローくん……こりゃあ、厳しい道のりだねえ……。
涼子は、ヤキモキしているかもしれない、ジローの顔を思い出して苦笑いするのだった。




