奈々子の家で
涼子は奈々子の家に遊びに来た。奈々子の家は、実は歩いても五分程度で到着するくらい近い。涼子は「西大寺川口」で、奈々子は「西大寺新地」なので地域は違うが、お互い地域の隣接部に住んでいることもあって近かった。なので学校外で遊ぶ機会も必然的に多かった。
自動車の往来のある道路から少し奥に入った、住宅が五、六軒並んでいる中に奈々子の家はある。この辺りの家はどこも農家で、奈々子の両親も農業をやっている。しかし専業ではなくて、会社員もやっている兼業農家のようである。
農家だけあって、建物は和風の立派なものだ。奥には古そうな倉も見える。
「ナナちゃぁん、あぁそぉぼぉ」
奈々子宅の玄関前で、呼びかける涼子。家の中からドタドタと誰かが走っている音がして、「はぁい!」という声とともに、玄関の引き戸が開けられた。
「モモの”きせかえ”かってもらったのよ」
奈々子は嬉しそうに、自分の学習机においてあったノートを持って来た。ミンキーモモの絵柄が前面に描かれたノートで、ページをめくるとカラフルで様々な衣装が描かれている。そのうちいくつかは切り抜かれていた。
これは、着せ替え遊びのためのものだ。着せ替えと言うと、リカちゃん人形などのような、布の衣装を人形に着せ替えて遊ぶものをまず連想するが、それはやはり高価で、そう簡単に買ってもらえるものではない。しかしこれは、ベースとなる人物の描かれている用紙を切り抜き、それに合わせて描かれている各衣装を重ね合わせることで、様々な衣装に着せ替えできるものだ。今でも販売されているし、遊んだことのある人は多いのではないかと思う。欠点はあくまでも絵でしかないのと、ハサミで切り取らなくてはならない(細かい部分が難しい)。ただ、安価なので買ってもらいやすいのが利点だ。この頃には女児向けの漫画やアニメも増え、それを題材にしたものをセイカノートやショウワノートなどのメーカーが多数販売していた。
涼子はすでに切り取られている、ウエディングドレスや婦警の衣装を手にとって言った。
「ナナって綺麗に切れるのねえ。私だったら絶対こことか間違って切ってるし」
「サァンクス、フレェンズ!」
涼子に褒められて嬉しそうに言った。これはミンキーモモが時折言うセリフで、奈々子は気に入っているらしく、学校などでもよく言う。これが仲のいい典子などにも伝染して、教室にも数人言っている。
「ピピルマ、ピピルマ、プリリンパ。パパレホ、パパレホ、ドリミンパ。アダルトタッチで看護婦さんになぁれぇ!」
奈々子がそう言うと、通常の服を着たミンキーモモから、大人になったミンキーモモに持ち替え、それにナース服を装着している。終わると、お供の動物のピピルの口真似をして「ステキよぉ」とモモを褒めた。そして「サンクス、フレェンズ!」である。
涼子は患者の役割らしく、セイカのオリジナルキャラの着せ替えを渡され、「痛いよう、足が痛い」とそれっぽいことをやっていた。
「まかせなさい、かんじゃさん! このミンキーモモがきたからには、もうあんしん。すぐなおるわ! さあ、このベッドに」
奈々子はベッドの描かれた紙を設置し、涼子の演じる患者を誘導して、涼子にベッドに患者を置くように指示した。
そんなことをしばらく続けていると、奈々子の母親が部屋にやってきた。
「涼子ちゃん、いらっしゃい。ジュースとお菓子をどうぞ」
奈々子の母親は、満面の笑みで涼子におやつを振る舞った。
「おばさん、ありがとう!」
「お菓子はまだあるから、ゆっくりしていってね」
ニコニコ笑顔のまま、奈々子の母親は部屋を出ていった。
「お母さんったらね、ともだちがこないと、こんなにおやつくれないんだから」
奈々子は、普段より豪華なおやつに愚痴が出た。
「私のお母さんも一緒だよ。普段はすぐ怒るのに、友達が来たらニコニコするし」
「やっぱりそうよね。どこもいっしょだわ――」
どの家庭でも母親は似たようなものだ。地域との繋がりも深く、世間体を気にする傾向が強いこともあって、子供には厳しくても、他所にはいい顔をするのである。
ふと、心の底に沈んでいた何かが、ゆっくりと浮上してきたような感覚に陥った。
——あれ? なんだろう、私……これ、知っている?
自分の記憶に、この「奈々子と着せ替え遊びをしている場面」に覚えがあると感じた。
そんなばかな、と思った。そんな記憶なのだから、前の世界のことである。前の世界では、異性だったこともあり、奈々子は特に友達ではなかった。同級生では割と家が近かったので、よく知ってはいるものの、一緒に遊ぶことなどなかったはずだ。それがどうして……?
「——涼子、どうしたの?」
気がつくと、奈々子が不思議そうな顔をして、涼子を見ていた。
「え? あ、ああ——なんでもない。うん、別になんでもないよ」
「そう?」
「うん。……あ、あれって『なめ猫』?」
涼子は壁の片隅に貼られてあるポスターを指差して言った。
「そうだよ。もう、あんまりきょうみないけど」
「なめ猫」は実物の猫に、暴走族や不良っぽい衣装で飾った姿をグッズにしていたキャラクターものだ。
当時、どうやって立たせているのか? だとか、虐待している、だとか、いろいろと憶測が飛び交っていた。これは、猫を「立たせて」いるように見えるが、実際には「座った」状態で撮影しており、猫に無理を強要してる訳ではない。普通に衣装を着せて撮影しているだけである。
昭和五十五年ごろからグッズが発売され、ポスターやブロマイドがとてつもなく売れた。大変なブームで、涼子も免許証風のブロマイドを買ってもらったものだ。他にもシールやら文具、レコードやら様々登場したが、ブームは二、三年で終息した。この昭和五十七年にグッズ販売を終了したこともあり、涼子たちの間では興味を失いつつあるようだ。
「私、免許証持ってたけど、どこへやったかなあ」
「あ、わたしももってるよ。「しぬまでゆうこう」だよね」
「そうそう、「なめられたら無効」とかもあったよ」
涼子たちはしばらく、なめ猫の話題で盛り上がった。しかし、あの既視感はなんだったのだろう? それがしばらく頭から離れなかった。
奈々子は途中で、何かを思い出したような表情をすると、すぐに笑顔になって言った。
「そういえば来週ね、水族館にいくのよ」
「えぇ、すごい。水族館! いいなあ」
涼子は羨ましがった。本当に羨ましかった。涼子にはそういうイベントがなかった。もちろん盆の頃には祖父母の家に遊びに行くのが恒例で、その予定はある。しかし、奈々子のように水族館だとか旅行などに連れて行ってもらう予定はない。両親は仕事で忙しいのだ。子供には夏休みがあっても、大人にはない。いや、ないというのは正確ではないが、涼子のように一ヶ月以上もあるわけがない。サラリーマンなら、三日か四日程度だ。ましてや涼子の家は自営業だ。日曜はまだしも、夏休みなど無理なのだ。
「涼子はどこか行かないの?」
「お父さん忙しいから……おじいちゃんの家に遊びに行くくらいかなあ」
「そっかぁ、なつやすみくらい、つれていってくれてもいいのにね」
「そうだよねえ」
涼子はため息をついた。
ちなみに、奈々子が連れて行ってもらえるという水族館は、「神戸市立須磨水族館」だ。現在の、「神戸市立須磨海浜公園」の前身である。昭和三十二年に開園し、昭和六十二年に、現在の建物とともに名称もリニューアルした。
奈々子は神戸に親戚がいるらしく、それもあってこれまでにも何度か行っているのだそうだ。そういう場合、旅行も兼ねて連れて行ってもらえるのだろう。しかし、涼子の場合は、どちらも岡山県内――しかも車で三、四十分程度の距離でしかない。旅行というにはあまりにも近すぎた。もちろん、それだけ近いと頻繁に会いに行ける利点もあるが、悲しいかな、涼子の家は仕事が忙しくて、祖父母の家にすら滅多に連れて行ってもらえない状態だ。
もちろん岡山県内でも遊園地とか海水浴場とか、そういったものはあるし、ジャスコでもいいのだ。しかし現実は、ジャスコにすら連れていってもらえず、奈々子や典子が行ってしまったら、もう家で翔太のお守りしかない。そして、夏休みが終わって二学期になった時、自分だけ遊びに行った話もなくて、教室の中で孤立するのだ。まあこれは極端だが、自分の話のネタも作れないのは悲しい。
午後五時ごろ、そろそろ家に帰らないと怒られるので、奈々子の家を後にした。帰路の間、ずっとどこかに連れていってもらえないものか考えていた。
夕飯の際、思い切って敏行に話を切り出した。
「ねえ、お父さぁん。遊びに行きたい。連れてって」
「うぅむ、仕事が忙しいからなあ。盆にはおじいちゃんのとこへ泊まりに行くだろう」
やはりというか、予想通りの反応だった。
「そうじゃないよ。海とか行きたい」
「しょうくんもいきたい!」
翔太も援護射撃をくれた。
「海なあ……」
「涼子、お父さんは忙しいのだから、無理を言ってはだめ」
真知子は子供たちの要望を一蹴した。
「えぇ……でも、ナナは水族館に連れていってもらえるって言ってたし、典子も北海道に旅行に行くって言ってたよ」
「よそはよそ。うちはうち。うちはまだ旅行に行けるほど余裕はないのよ。我慢しなさい」
幼稚園の頃からの決まり文句だった。もっと言うと、前の世界でも同じだったので、涼子からしたらもうウンザリするようなセリフだ。やっぱり貧乏は悲しいことだ、と思った。いや、実際は言うほど生活に困窮しているわけではないが、結局レジャーにお金を使えないのなら、子供たちからしたら同じことだ。
「えぇ、でも……」
「でもじゃありません。我慢しなさい」
涼子は不満タラタラだった。しかし、真知子にぴしゃりと言われると、もう何も言い返せなかった。
――はぁ、いいなあ……奈々子。




