昭和五十七年の夏休み
「それでは、通知表を返します。出席番号順に渡しますので、名前を呼ばれたら前に取りに来てください」
島田はそう言うと、通知表を一冊手に取った。
「では――赤井くん」
今日は七月二十日、火曜日。一学期の終わり、終業式の日だ。明日から夏休みとなる。世の学生の楽しい楽しい期間が始まるのだ。
由高小学校では、七月二十一日から八月三十一日までのひと月半――六週間が期間だ。働いている社会人からしたらとても羨ましいことである。
しかし、その楽しい夏休みの前に子供たちは試練を突きつけられる。それが、「通知表」だ。この通知表の良し悪しで、両親に褒められて、楽しい夏休みが始まるのか……小言を言われて、嫌な気分で夏休みが始まるのか。その瀬戸際である。
「安田明彦くん」
「はい」
安田は返事をすると、席を立って教卓の島田のところまで歩いていく。そして自身の名前の書かれた通知表を受け取った。受け取ると、自分の席に戻っていく。
「それでは、今度は女子ですね。……遠藤康子さん」
「はい」
「畑宏美さん」
「はい」
畑が呼ばれた。出席番号順では次が涼子の番だ。
「畑さんは西村さんと仲がいいですね。これからも仲良くしてくださいね=」
島田がひと言言うと、畑が少し嬉しそうに顔を綻ばせた。畑が席に戻っていくと、島田は次の名前を呼ぶ。
「藤崎涼子さん」
「はい」
涼子は意気揚々と島田の元に歩いていく。涼子が初めてもらう通知表だ。成績はなかなかいいはず。両親には自信をもって見せられるはずだ。
「藤崎さんはどの授業も一生懸命で、そして、とても素晴らしいです。二学期も変わらず頑張ってください」
島田はそう言って涼子に通知表を手渡した。涼子は「はい!」と元気よく返事した。
表紙に”通信簿”と書かれた、三つ折りの白い紙。その内側に、それぞれの教科の成績が二段階で記載されている。本来は三段階で、「よい」「ふつう」「いまひとつ」となっている。この表現は地域によって数字やアルファベット、〇△など様々だが、由高小学校はこの表現だった。一年生は「いまひとつ」がなく、「よい」か「ふつう」のみだ。二年生から通常の三段階になる。
「お母さん、通信簿!」
涼子は自信をもって、真知子に自身の通信簿を差し出した。得意げに差し出すところを見ると、自信があるのだろう、と真知子は思った。
「涼子ちゃんの成績はどうかな……あら、すごいじゃないの」
「えへへ」
涼子の成績は、
国語 よい
算数 よい
理科 よい
社会 よい
体育 よい
音楽 ふつう
図画工作 ふつう
となっていた。音楽と図工以外は「よい」だ。
「涼子ちゃんは、きっとできる子だと思っていたわ。よくがんばったわね。あとでお父さんにも見せて褒めてもらいましょ」
真知子は大層ご満悦のようだ。さらに「晩ごはんは涼子の大好きなハンバーグにしましょ」とまで言った。
「それじゃあ、工場に戻るからね。ご迷惑にならないよう、行儀よくするのよ」
真知子はそう言って工場に戻った。先ほどは何か用事があって家に戻っていたらしい。
「さあて、私も……」
涼子はこの後、奈々子と遊ぶ約束をしていた。先ほど真知子が言っていたのはこのためだ。今日は、翔太は保育園に行っているので家にはいない。早速部屋にランドセルを置いて、奈々子の家に出発だ。
奈々子の家に遊びに行くために、外に出ると、ちょうど向こうから隼人が帰ってきた。
「あ、隼人。おかえり」
「ただいま。なんだ涼子、もう帰ってたのか? ……って、ああ」
隼人は意外そうな顔をしている。しかし、涼子がまだ一年生だということを思い出して納得した風だ。
「もちろんだよ。隼人は遅かったね」
「高学年は大掃除があるからなあ。一年生はいいな、すぐ帰れるんだから」
学期の最終日には大掃除をするが、一、二年生はそんなに大掛かりではない。しかし三年生以降は教室のみならず、各特別教室なども大掛かりに掃除する。そのため、三年生以降は、帰る時間が一時間くらい遅くなる。
「ふぅん、そうなんだ。あ、そういえば隼人も通信簿を貰ったんだよね。どうだった?」
「どうだったも何も、だめだめ。俺って勉強は嫌いだからなあ。って、そういうお前はどうなんだ? はじめての通信簿だろ」
「ふふん、どうだと思う? ねえ、どうだと思う?」
涼子はニヤニヤしながら聞いている。自慢してくてしょうがない風だ。もちろん隼人はそれを見抜いて、呆れた顔をした。
「ちぇっ、どうせ自慢できるようなやつなんだろ。……ヤなやつ」
「ねえ、聞いて聞いて。国語算数理科社会、全部”よい”だったんだよ。すごいでしょ」
「へえへえ、凄うござんすねぇ。――まさか、お前は自慢するためにここで待ち構えていたんじゃないだろうな」
「そんなことないよ、偶然だよ。ぐ、う、ぜ、ん」
実際に偶然だが、隼人にはそうは見えなかったようだ。
「本当かよ。……あぁあ。母さんはともかく、姉ちゃんがなあ……」
隼人はどうも気が重いようだ。
「洋子お姉ちゃんがどうしたの?」
「姉ちゃんはなあ、うるさいんだよ。自分の通信簿がいいからって、偉そうに自慢しやがってさ。あの鬼ババア……」
隼人は憎たらしげにブツブツ言っている。
「ねえ、隼人……」
「なんだよ?」
驚きの表情をした涼子の顔を見て、怪訝な顔をする隼人。
「……ふぅん、あんた、そんなこと言うわけ」
「え?」
聞き覚えのある声が背後から聞こえたと思って、ふと振り向いたら、そこにはかなりご立腹の様子である姉の姿があった。
「鬼ババアで悪かったわねえ。隼人」
「……あぁ、え、ええと……いや、あの……」
恐怖に顔を引きつらせた隼人に、鬼の形相の洋子の影が覆った。
「いいから来なさい!」
「あいたた――ね、姉ちゃん、ごめん、ごめんってば! もう言わないから! 痛いって!」
洋子に耳を引っ張られて、家の方に連れ去られて行く隼人。
「涼子ちゃん、悪いけど隼人は連れて行くね。それじゃあね」
「う、うん……」
微笑んでいるように見える洋子の顔は、内では絶対に笑っていないと確信できた。曽我姉弟の力関係がよくわかる場面だった。
「……何、あんた、また算数が”いまひとつ”じゃないの。こんな馬鹿が、私の弟だって言うのが信じられないわ!」
かなり絞られているであろう声が、家の方から聞こえて来た。




