学校生活
「きりつ、れぃ、ちゃくせき」
同級生の持田啓介の声に反応して、生徒たちが席から立ち上がり、礼をする。教壇で対面している担任の島田も合わせて礼をした。
そして島田は、先ほどまで使っていた算数の教科書を他の書類と一緒にまとめると、普段通り落ち着いた足取りで教室を出て行った。教室は、すぐに話し声がそこかしこから聞こえ始め、授業中の静かな空気を一変させた。
一時間目の授業が終わり、十分間の休憩時間になる。次の二時間目は国語だ。
涼子は、先ほどの算数の教科書とノートを机の中にしまって、次の国語の教科書とノートを出した。そうしたところで、奈々子がそばにやってきた。
「涼子、さっきのむずかしかったね。これ、ロクだったかなあ、キュウだったかなあ」
奈々子は先ほどの授業で習った、問題について言っている。九と三が一緒になると、数字はどうなるか? という問題だ。九+三で、答えは十二だ。足し算の問題だが「繰り上がり」がよくわかっていないらしい。涼子と違って、実際に小学生になったばかりの奈々子には、まだ理解が及ばない部分も多いのだろうと思われる。
「十二だよ。九と三を足すと十二になるでしょ」
「え? どうしてジュウニ?」
「ええとね、十二は……」
奈々子は涼子の言った意味がわかっていないようだ。やはり、まだ奈々子は数字の理解が完全ではないようで、涼子はそれをわかりやすく説明しようと思ったが、小学生にわかるように教えるには、どう説明したらいいかわからず、言葉に詰まった。
「あはは、まあ――私もよくわからないかなあ……」
結局、笑ってごまかすことにした。
その時、涼子の席の斜め後方の辺りで、男子の嬉しそうな声がした。
「いやあ——これ見てよ。かっこいいでしょ」
そう言って、嬉々として自分の筆箱を同級生たちの前で掲げるのは、持田啓介だ。彼は岡山県に本社を持つ「持田電器」の社長の息子で、要するに、お金持ちの家である。割と目立つのが好きな上に、自慢したがりなところもあって、今まさに、その自慢を始めようとしているわけだ。
彼が今回自慢するアイテムは、いわゆる「多機能筆箱」だ。プラスチックの本体に磁石などで固定する蓋が複数あり、中には鉛筆を固定する可動式ホルダーや、定規を収納する専用のスペース、さらに蓋は裏面にもあって、そこにも小物を収納できるようになっているなど、ただ文具を放り込むだけの箱ではない。また消しゴムは、別蓋で専用の収納場所があったり、表面には子供の興味を引くようなイラストや格好いい写真などがプリントされており、当時大人気となっていた。数年前から人気が沸騰し、この頃には、相当複雑なギミックが搭載されているものがあった。
また、これらは文房具であり、学校に持っていくことができた。それも大流行した原因のひとつでもあったのではと思われる。この後の時代にも色々と登場するが、文具に玩具の機能を持たせたもの……もしくは逆に玩具を文具に仕立てたものなどは、子供たちに人気があった。文房具として学校に持っていけるからだ。
「わぁ、すげぇ!」
持田啓介と仲のいい、木田浩司が言った。
「ほら、ここも開くんだ」
持田は、側面にある境目のようなところから、本を開くように広げて見せた。その内面にも鉛筆などが収納されている。
「やっぱり、もっちゃんはすげえなあ」
木田と一緒に、羨望の眼差しで持田の自慢の一品を見ていた、仁科義博が言った。彼も持田の友達だ。
遠巻きにその様子を奈々子と一緒に見ていたが、ふと机の上にある自分の筆箱と見比べてしまった。涼子の筆箱は、ビニール製でジッパーの開け閉めのみのシンプルなものだ。全体は水色で、サンリオのキャラクター、「マイメロディ」のイラストがプリントされている。入学祝いとして、母方の親戚である内村夫妻からプレゼントされたものだ。筆箱以外にも、ノートや鉛筆、消しゴムなど複数の文具と一緒に贈られた。はじめは、流行っていた多機能型を贈るつもりだったが、真知子が「そういうのは、遊ぶからダメ」と断られたようだ。
それに、家が事業を始めたばっかりで、あまり買ってもらえなかったこともあり、他の子が持っているような多機能筆箱など買ってもらえるはずもなかった。ただ、学級内を見ても、ああいう多機能筆箱はあまりおらず、蓋開閉と筆記具ホルダー程度の、機能がシンプルなものが多い。涼子のような筆箱も教室に数人おり、別に涼子だけではない。
ああいうのは一時的な流行であって、三年生か四年生くらいで廃れて、別の流行に移行するのを知っているので、買ってもらえないからと言って、それほど残念には思わなかった。ただ、やはり久しぶりにああいうのを間近で見ると、なかなかに気分が高揚するものだ。しかし一時的なものだからこそ、今のうちに堪能したいと考えると、やっぱり欲しいなあとも思う。複雑な気分だった。
「いいなあ、わたしもああいうのほしいな」
「うん。すごいね、あれ。あんなところも開くんだ」
涼子はその複雑な機能を持った、持田の筆箱を羨ましそうに眺めた。それを見て、奈々子が言った。
「わたし、にちようびにね、おみせでみたの。ピンクでね、キティちゃんがこんなにおっきくかいてるのよ」
「ふぅん、それすごく可愛いね」
「うん、そうなのよ。それでね。このへんにエンピツけずりがあって、こうひらいて……」
奈々子は嬉しそうに話を続ける。欲しいのだろうな、と思いつつも、自分も多機能筆箱を颯爽と使っているという、と叶わぬ夢を想像するのだった。
「やあ、ええと……藤崎さんと村上さん。ぼくのこの、「ふでばこ」がきになる?」
ふいに、持田が涼子たちの前にやってきた。自慢の筆箱を大げさに掲げて。
「持田くん、すごいね」
奈々子は、持田が目の前に出した筆箱をしげしげと眺めて言った。
「いやあ、ぼくもね、そんなにみせびらかしたくなかったんだけどねえ――」
少し困ったような表情をするが、その奥には、自慢したくてしょうがない、という本音が見えた。
――散々、自慢げに見せびらかしておいて、何言ってんの。涼子は呆れた。――まあ、所詮は小学生のちびっ子だよね。と、涼子は相手にしないことにした。
「このね、ここのぶぶんが――」
持田が言おうとしたとき、チャイムが鳴った。二時間目が始まる。
「持田くん、始まるよ。早く席に戻ったら?」
「あ、うん……」
これから言うところが、最高に自慢できるところだったらしく、それをチャイムに阻まれたことで、どこか釈然としない風だった。涼子からしたら、ナイスタイミング! っていうところだ。
「さあ、これはなんて読みますか?」
島田先生は、黒板に「きょうしつ の こくばん」と書いた。もちろん「教室の黒板」と読むが、小学一年生の一学期では、まだちゃんとよめる生徒ばかりではない。しかし、このくらいだと、特には難しくはない。
そんななか、持田が「はい!」と元気よく手をあげた。
「持田くん、ではなんて読みますか?」
「きょうしつのこくばん、です」
「はい、そうです。では、これはどうですか?」
島田はさらに「みんなで いっしょに おべんきょう」と黒板に書いた。
「はい!」また持田だ。その表情に自信をみなぎらせて、元気よく手を挙げた。
チラリと涼子の方を見た気がした。
「みんなでいっしょにおべんきょう、です!」
「持田くんは、よくできますね。みんな、拍手をしてあげましょう」
教室中から拍手の音が響いた。持田は少し照れくさそうな顔をしていたが、その裏では満足感でいっぱいだった。
「それでは……これは少し難しいかな。わかる人はいますか?」
島田は黒板に、「ただしいこころ はぐくんで きぼうをむねに あるきゆく」と書いた。これは校歌の、言うならば「サビ」の部分の歌詞だが、言葉の意味が理解できていない生徒が多いようで、皆戸惑っていた。持田も、どうしたものかと考え込んでいる。島田も答えられる生徒はいないだろう、と思っていて、ちょっと授業に変化をつけようと、わざと難しい問題を出して見たのだ。「やっぱり、少し難しかったかな……」と言いかけた時に、
「はい」
と、涼子が手を挙げた。
「はい、藤崎さん。何て読みますか?」
「正しい心を育んで、希望を胸に歩きゆく。です」
「……! 正解です。すごいわ。藤崎さん」
涼子は照れ臭そうに頬を染めた。今度は自然に拍手がおこった。周囲の同級生からの尊敬の眼差しが涼子に向けられる。しかしその中でただひとり、持田は悔しそうな視線を送っていた。
どうやら持田啓介は、涼子に対抗意識があるようだった。ここ最近、涼子が授業で活躍していたのだが、それが面白くないようだ。
――ううむ、なんだよ。藤崎さんのせいで、ぼくがめだたないじゃないか!
持田は憤慨していた。彼は会社社長の息子だ。将来、跡を継いで社長になるはずだ。中小企業とはいえ、結構なお金持ちなのだ。家だって、涼子の家の四倍も五倍もある大きな家だ。
だから、同級生より成績が良くなくてはならない、と思っていた。
……しかし、現実に小学一年生である持田が、頭の中は大人の涼子に勉強で勝てるはずもなく、国語、算数、理科、社会……どれも敗北を味わされることになった。
持田は運動はそれほど得意ではないが、それも先日、体育の授業で「かけっこ」をした際、一緒に走ってあっさりと置いていかれたのは屈辱だった。涼子は、女子どころか一年生でも上位数名に入るくらい足が早いので、負けたところでそんなに悔しい思いをすることもないと思うが、どうしても涼子に勝ちたい持田は、不得意な体育でもやはり悔しいのだった。
――ど、どうして! 藤崎さんってなにものなんだ!
持田は悔しさでどうにかなってしまいそうだ。何か勝てる授業はないのか?




