翔太と隼人
「ジョーチャク!」
翔太はそう叫ぶと、家の中を駆けずり回る。その右手に持っているのは、「ハエたたき」だ。得意な顔をして、テレビの中のヒーローになった気分に酔いしれて、「レーザーブレード」という名のハエたたきを振り回した。
「こら、翔太! やめなさい!」
真知子が怒鳴る。先ほどまで、工場の事務所で伝票の整理をしていたが、ひと段落したので、翔太の様子を見に家に戻ってきたのだ。そして、嫌な予感がしていたと思ったら、案の定この馬鹿騒ぎである。
「えぇ……しょうくん、ギャバンだもん」
「なんでもいいけど、家の中で暴れたらダメだって、いつも言ってるでしょ!」
叱りつける真知子の剣幕に、意気消沈する翔太。そのままトボトボと子供部屋に帰っていった。真知子はようやく静かになるかと思ったが、実際には子供部屋で、この間買ってもらったテレビマガジンを眺めつつ、真知子がふたたび家を出るのを待って、もう一度ハエたたきを振り回して遊ぶつもりだった。
翔太は今、「宇宙刑事ギャバン」に心奪われていた。放送中のゴーグルファイブも大好きなヒーローだが、今年登場したメタルヒーローシリーズの第一弾「宇宙刑事ギャバン」に夢中なのだ。メタル感漂うシルバーの渋い姿に、颯爽と戦うクールなイメージが新鮮だったようで、いつもごっこ遊びをしている。ハエたたきを「レーザーブレード」、三輪車を「サイバリアン」と称している。
これを家の中で頻繁に繰り返しているのが、真知子には悩みの種だ。何度叱っても、止めるのはその時だけで、また始めてしまう。
ただ、これはしょうがないことではある。長時間ではないにしろ、翔太しかいない時間がある。真知子は度々帰ってくるが、ずっと家にいるわけには行かず、どうしても目を離さざるを得ない時間があるのだ。保育園に預けている日もあるが、毎日ではない。大体、週に三日である。
真知子は本当は、翔太から目を離したくないのだが、事務員を雇うほど余裕がなく、どうしようないのが現状だ。
「みんな、じゃあね。バイバイ」
涼子は、一緒に帰っていた五、六人の同級生たちに別れを告げて、自宅に至る細い道に入っていった。視界の先には自宅が見える。家の周囲は畑が多く、建物は多くないこともあって、結構離れたところからでも見えるのだ。
「あら、おかえりなさい。涼子ちゃん」
自宅の手前、曽我家の前で洋子の母に出会った。家の門の周囲を掃除をしていたようだ。
「あ、おばさん。ただいまぁ!」
涼子は笑顔で返した。
「涼子ちゃんは元気ねえ」
「そ、そうかなあ。えへへ」
「うふふ、お父さんもお母さんも大変だけど、涼子ちゃんがこうなら、安心だと思うわ。翔くんもお姉ちゃんが涼子ちゃんだから、お利口さんにお留守番できるんだと思うのよねえ」
「ああ、そうだ。翔くんと遊んであげるんだ。おばさん、それじゃあ」
「ええ、翔くん待ってるわ」
涼子は颯爽と自宅に駆け込んでいった。
「ただいまぁ!」
涼子が玄関を開けて入ってくると、家の奥からすぐにドタドタと駆けてくる音が聞こえる。もちろん翔太である。姉の声が聞こえたので、すぐさま会いたくて駆け出してきたのだ。
「お姉ちゃん、おかえり!」
翔太の嬉しそうな顔は、母が様子を見に帰ってきた時とは違う。どうしてかというと、結局遊びたい盛りの翔太には、姉である涼子は一番身近な遊び相手なのだ。母である真知子はギャバンごっこの相手はしてくれない。涼子は敵役をやってくれることも多々あるが、やっぱり大人は相手にしてくれないのだ。
「ギャバンだいなみっくっ!」
自慢のハエたたきを振り回して、涼子を攻撃した。
「やぁ!」
涼子は、それを手に持っていた手提げ袋で難なく防御した。すかさず、「ギャバン破れたり」と不敵に笑う。
「ああ、もう! カイジューはやられないとだめなの!」
いつも通りだが、思い通りの反応を見せないと、翔太は駄々をこねる。涼子はそれをわかってて、わざとやっている。翔太の思い通りにやらせていたら、絶対調子にのるに決まっているからだ。
「とりあえず部屋に行こうよ。着替えないと」
涼子は靴を脱いで上がると、早く遊びたそうにしている翔太を尻目に子供部屋に向かった。
「ピピルマピピルマプリリンパ、婦警さんになれぇ」
涼子は、左手に持った孫の手を振り回して、ミンキーモモの呪文の言葉を唱えた。
「魔法のプリンセス ミンキーモモ」は、この一九八二年に放送されている、女児向けアニメだ。主人公が魔法を使っていろんなことを起こす、いわゆる「魔女っ子もの」の作品で、東映で製作されていた「東映魔女っ子シリーズ」の最終作であるララベルから一年挟んで放送された。ミンキーモモは、魔法の力で様々な職業の大人に変身でき、それによって様々な事件を解決するという物語は、次第に視聴者の支持も得られていき、九十年代にも新作が製作されるなど、後々高い人気を得ることになった。
「翔くんを逮捕する!」
すかさず右手に持っていた、手錠のおもちゃを翔太の眼前にかざして、「逮捕!」とふたたび言った。
「やぁい、つかまるもんかぁ」
翔太は軽々と動き回って涼子から逃げる。以前の翔太なら、捕まえるのは簡単だったが、最近は動きも軽快ですばしっこくなっている。
結局、子供部屋を飛び出して、応接間を走り回っているところを真知子に気づかれて、ふたりの頭に雷が落ちた。そのあと、真知子は涼子にひとつ仕事を指示した。
「涼子、ちょっとお使いに行ってきてくれない?」
「お使い?」
「『つるみ』に行って、お醤油買ってきてほしいの」
「うん、わかった」
母のご機嫌をこれ以上損ねないように、元気よく返事した。
「じゃあ、これ」
真知子は涼子に醤油の代金を渡した。
『つるみ』と言うのは、藤崎家のある場所から少し歩いたところにある雑貨屋である。正式には『つるみ商店』という。日用品全般を扱っており、あまり大きな店舗ではないが、利便性は高く、近所周りではよく売れている。駄菓子などもたくさん売っているため、子供もよく買いにくる。
余談だが、十年くらい後に少し業績がよくなったのか、元の店舗の隣に倍以上の大きさの店舗を建てて、『新地ストア』(新地とは、店のある地名)と店舗名を変更して開店した。しかし、その後数年もすると近辺には住宅が増えるも、コンビニや郊外の大型スーパーに客を奪われて二〇〇〇年までには閉店している。この辺りは田舎ではあるものの交通の便はよく、自動車がさらに普及すると、いくら近くに店があっても、大して安くない店などに客はやってこない。みんな車で町まで行って買い物するのだ。
母から預かった百円玉を握りしめて、意気揚々と出発する。この時代の物価はとても安い。前の世界では二〇一七年だったが、その時と比べてもおよそ半額くらいであろう。もちろん全部が全部そうであるわけではないが、大抵の物の平均するとそのくらいになる。
涼子がお使いで購入する醤油は、150ミリリットルの醤油差しのものだ。工場の事務所に置いてあるものを、落として壊してしまったらしい。
「つるみ」にはキッコーマンが一九六一年に販売開始された「キッコーマンしょうゆ卓上びん」が売っている。売っているというか、卓上サイズの少量のものはこれしか売っていないが。
上部の赤い注ぎ口から少し下でくびれた、瓢箪の上部を切り取ったようなデザインは、もう当たり前の形状で、特に気にするような人は少ないだろうが、当時当たり前だった液だれをし辛くしたデザインは、かなり画期的だった。
「よう、涼子。何やってんだ?」
ふいに後ろから声をかけられた。振り向くと、小学校高学年くらいの端正な顔立ちをした男の子だ。
「何って、お使いだよ」
「ふぅん、お利口さんじゃんか」
そう言う男の子は、どこか涼子をからかっている風な感じがした。
「なんだか嫌な言い方」
彼の名は、曽我隼人。涼子と同じ由高小学校に通う、小学五年生だ。涼子より四歳年上である。苗字から想像がつくだろうが、涼子と親しい向かいの家の子、曽我洋子の弟だ。甘いマスクとスマートな体格が姉に似て美形で、女子の人気はとても高い。
西大寺に引っ越してきた当初から、洋子に紹介されて知り合った。洋子には「涼子を学校に連れていくのは、高学年のお兄さんであるあなたの仕事」と命ぜられ、実は毎朝登校する際には、いつも隼人と手を繋いで一緒に登校している。
また涼子と翔太にとっては、近所の親しい子供であることもあり、学校以外でもよく遊んでくれたりする親しいお兄ちゃんだ。明るく頼もしい性格と誰とでも仲良くできることもあり、翔太はよく懐いていた。
しかし、実は涼子はよくからかわれていた。隼人からしたら、涼子を遊んであげているだけという感覚なのかもしれないが、大抵は涼子を怒らせてしまう。大人は子供たちがじゃれあっている。仲がいいねえ。というくらいにしか思われていない。
前の世界においては、隼人は「気のいい、頼れる兄貴」といった感じであった。この世界とやっていることは変わっていないように思うが、男の子の場合と、女の子の場合では、それでもどこか違うような気がしていた。同性の気の合う兄貴だったのが、この世界では女の子の相手なので、もしかして対応に困惑しているのかもしれない。
「どこに行くんだ?」
「もちろん「つるみ」だよ。お醤油買うの」
「ふぅん、暇だから一緒について行ってやろうか?」
隼人はニヤニヤしながら涼子の頭を撫でた。
「ケッコウですぅ! 隼人ったらすぐ意地悪するんだから!」
涼子は隼人に向かって舌を出すと、あかんべぇをした。
「そんなことするわけないだろ、せっかく手伝ってやろうかと思ったのに」
などと言う割には、ニヤニヤをやめない。何か企んでいるような気がした。
「私、忙しいから。じゃあね」
涼子は無視して歩き始めた。隼人は、その後ろ姿を眺めながら、「やれやれ、嫌われたもんだな」などと、つぶやいて笑った。




