今日から小学生
「私の将来の夢。私は将来、お花屋さんになりたいです。私の家には、お母さんが育てている花壇があります。いろんな種類の、いろんな色のお花がたくさん咲いています。私もお母さんの育てたお花が大好きです。だから、大人になったら大好きなお花をたくさん育てて、お花屋さんをやりたいと思います」
涼子が言い終わると、教室中から拍手が響いた。教壇の先生は、「藤崎さんは、とても夢があっていいですね。将来、藤崎さんがお店を作ったら先生も藤崎さんのお店で、お花を買いたいです」と言い、微笑んだ。直後、再び拍手がした。少し照れた表情の涼子は満足感を感じつつ席に着いた。そして、先生が次の生徒の名前を呼ぶと、その同級生が起立し、同じように将来の夢を書いた作文を読み始めた。
楽しい日々だ。幸福の温かみに包まれ、明るい未来に胸を膨らませて今を生きていく。ずっとこんな日々が続くと信じて、未来へ向かってゆっくりと歩いていく。
輝く未来への期待が光となって、涼子の体を包み込み、そのまま意識を遠く果てまで連れていく。薄れていく視界。世界が真っ白になった次の瞬間、涼子の世界は現実に戻された。
「涼子、起きなさい。もう朝でしょ!」
母の声が聞こえた。眠い目をこすりながら、少しづつ意識がはっきりしてきた。
「おかぁさぁん、おはよぅ……」
「おはよう、朝ごはんできてるから、早く着替えなさい」
真知子はそう言って部屋を出た。
一九八二年、昭和五十七年。四月の半ば、涼子は小学一年生。ついこの間、入学式を終えて、岡山市立由高小学校の一年A組の生徒になったばかりだ。
涼子たち藤崎家は、三月の下旬に西大寺に引っ越してきて、もう半月ほど経った。最初は家の整理整頓など、とにかく忙しく、涼子もよく両親の手伝いをした。それでも数日すると、翔太が走り回って親たちの作業を邪魔をするので、涼子に翔太の面倒を見るよう言いつけられて、結局ふたりで遊んでいるのだった。
涼子の隣には、弟の翔太がまだ寝ていた。普段元気のいい翔太も、やはり寝ているときは別人のように静かだ。起こさないように気をつけながら、タンスの自分の服を入れている抽斗を開けて、ソックスとシミーズを取り出した。学校へは指定の学生服があって、紺色のジャケットにプリーツスカート、下にはやはり指定の白いシャツを着る。リボンやネクタイのようなものはない。これに校章の付いたベレー帽を被る。ちなみに、男子は学生帽だ。
寝巻を脱いでシミーズを着ると、続いてシャツとスカートを着た。だが、まだ着慣れていないせいか、思ったよりもたついた。そして、よせばいいのに、立ったまま片足立ちでソックスを履こうとしてバランスを崩すと、転ぶまいと必死にバランスを取ろうとして、うっかり翔太の手を蹴飛ばしてしまった。
「うぅん、はぁあ……」
まだ寝ぼけているが、次第に痛みを感じてきたのか、涙目になっていく。
「ごめんね、翔くん……」
「う、う、うわぁぁん、いたぁいぃ!」
「ごめん、ごめん、痛いの痛いの飛んでけぇ。ほら、もう痛くないよ。もう大丈夫だよ。痛くないよ」
――もう、こんな時に! と焦りながら弟をなだめようとする。が、まったく効果がない。
「わぁぁん!」
「ちょっと、どうしたの?」
何事か、という様子で真知子が部屋に入ってきた。涼子がことの次第を説明すると、真知子は翔太をあやして「涼子は早くご飯食べなさい」と言って、部屋から出した。涼子は気まずそうな顔をして居間に向かった。
「おはよう、涼子」
居間に入ると、敏行が朝食を食べていた。朝食の横に新聞を置いて、新聞を見ながら食べている。涼子はいつもの自分の座る場所に座ると、「おはよぉ……」とだけ言って自分の箸と茶碗を持って朝食を食べ始めた。藤崎家では、朝食は基本的に白いご飯と味噌汁だ。おかずに魚や目玉焼きなどがある。時々パンの時もあるが、基本は和食であるようだ。
「なんだ、元気がないな。どうかしたのか?」
「さっき慌てて着替えてて、転びそうになったら翔くんの手があってね、翔太ったら泣くんだもの」
「翔太は泣き虫だな。まあ、小さいからしょうがないか」
敏行はそう言って、味噌汁を啜った。大したことではないと考えたのか、あまり興味がないようだった。
そうしていると、真知子と翔太が部屋に入ってきた。
「お姉ちゃんのばか!」
翔太は痛い目に遭わされて怒っているのか、第一声がこれだ。
「もう、ごめんって言ってるでしょ。翔くん、学校から帰ったら遊んであげるから」
「ほんと? あそんでくれるの? わぁい!」
先ほどまでの態度が一八〇度変わってしまった。
翔太は、まだこの新しい生活環境に馴染んでいるわけではなく、仲のいい友達もまだいない。だから、涼子に遊んでもらえるのが、とても嬉しいのだ。
涼子はもうクラスに何人か親しくなった同級生がいた。今日も普段なら誰かと遊ぶはずだけど、翔太と約束したから今日は翔太と遊ぶことにした。
「ごちそうさま」
手早く朝食を食べ終わると、居間をでて、洗面所で歯を磨く。そうしていると、いつもの学校に行く時間が近づいてくるのだ。
そんな時、ふと入学式の時を思い出した。
――今日から涼子は小学生。期待に胸を膨らませて、新しい舞台での生活が始まる。
「涼子ちゃん、おはよう」
近所に住む曽我家のおばあさんである。毎朝、家の前を簡単に掃除している。日課のようだ。涼子も元気よく挨拶した。
「おばあちゃん、おはようございまぁす!」
「涼子ちゃんは本当に元気ねえ」
そうしていると、曽我家の玄関が開いて曽我洋子が出てきた。
「あら、涼子ちゃん。おはよう」
涼子の姿を見つけると、洋子は小さく手を振って涼子のそばに近寄ってきた。
「洋子お姉ちゃん、おはよう!」
涼子も元気よく挨拶した。
「涼子ちゃんも今日から小学生ね。いいわねえ、ピカピカの小学生。懐かしいわ。うふふ」
洋子は自分の小さい頃を思い出して微笑んだ。
涼子は新しい制服と通学用に新しく買ってくれた靴。そして背中の赤いランドセル。このランドセルは父方の祖父、藤田のおじいちゃんが買ってくれたものだ。お礼も兼ねて一度訪ねて行った時には、涼子のランドセル姿にデレデレが止まらなかった。自分が買ってやったランドセルを背負って喜ぶ、孫の姿が可愛くてしょうがないようだった。
曽我家は、藤崎家の細い道を挟んだ斜向かいにある。周囲にはこの二世帯以外にはもう一軒あるが、その家の出入りは藤崎家と曽我家が利用する細い道ではなくて、畑を挟んだ反対側の道路にある。もう子供が家を出て、五十代の夫婦のみで住んでいるせいか、それほど交流がない。しかも、実は住所は隣の地区だったりする。
先ほどの曽我洋子は、曽我家の長女だ。今年小学校を卒業して、今は中学一年生になった。去年に初めて会って、それ以後、引越しの準備などで時々新しい家に訪れた際にも会っており、引っ越した今ではとても親しくしていた。
「あら、洋子ちゃんおはよう」
藤崎家の方から真知子が出てきた。丹念に化粧をして服もよそ行きの小綺麗な服装をしている。しかし、少々厚化粧な気もする。
「おばさま、おはようございます。涼子ちゃんの入学式ですね」
洋子も礼儀正しく挨拶を返した。
「ええ、この子もようやく小学生だわ。何だか緊張するわね」
「うふふ、この間の私の入学式の時も、お母さんが同じこと言ってました」
「みんな一緒ねえ」
真知子は口に手を当てて笑った。普段はしない仕草だ。もう入学式モードに切り替わっているようである。
「さあ、涼子。行きましょ」
「うん」
「いってらっしゃい」




