卒園
昭和五十七年の正月が明けて、今年も仕事が始まる。敏行は去年の暮れに上司に、退職を相談していた。この上司と敏行は、以前から仲がよかったこともあり、独立に理解してくれた。
「藤崎、お前もか――でもまあ、しょうがないよなあ……」
上司はため息混じりでつぶやいた。
「すいません。それでも……」
「まあ、言いたいことはわかっとるよ。うちも厳しいからな。若い奴から去って行くんだ」
上司は、もうこの会社が自分の定年まで持たないかもしれないことを予想していた。現在五十六歳で、もう五年も待たずに定年退職だったはずだが、仕事は減る一方で、利益にならない仕事ばっかりが回ってきている。有能な職人から去って行くものだから、余計に厳しい。いっそのこと、自分もどこかに転職を……などと考えるが、五十六歳の中年親父を雇ってくれる会社なんてあるのか……。
「まあ、藤崎。まだ若いし、これからも色々あるだろう。がんばれ」
そう言って、上司は敏行の肩を叩いた。
二月に入り、寒さもピークを迎えている。北風が体にしみるが、子供たちは今日も元気いっぱいだ。涼子も寒さなどものともせずに外で遊んでいる。
窓の向こうに、そんな姪の姿を見て和んでいる涼子の叔父、哲也。
「涼子ちゃんも、春から小学生か。大きくなったなあ」
「まあな。でもこれから、どんどん金がかかってくるんだよな。それが辛いところだが」
「それはしょうがないだろ。子供も大きくなったら、必要なものも増えるし。そもそも兄貴は、涼子ちゃんがどうこう以前の問題だろ」
「ははは、まあな。俺が一番金がかかるってな」
「しかしまあ、よくやったな。まさか兄貴が親父に頭をさげるなんて。聞いた時には驚いたよ」
「そうでもしなきゃ、貸してくれんだろ。これは俺の夢なんだ。どうしてもやる。そのためには親父にでも頭をさげる」
「その心構えは本当に感心するよ。俺も、できるだけのことはしたいし、なんかあったら言ってくれよな」
哲也は、兄の固い決意に感銘を受けているようだ。
「ああ、すまんな」
少し、しんみりした空気がふたりの間に漂う。そんなとき、哲也が口を開いた。
「なあ――涼子ちゃん、どうなんだ?」
「涼子がどうかしたか?」
「友達もいるだろう。離れると悲しむんじゃないか?」
哲也はちょっと気になっていたことを聞いた。どうしようもないことだが、まだ小さい姪が悲しい思いをするのは、あまり気分のいいことではない。
「まあ……それはな。でもしょうがない。別れはどうしてもあるからな」
「そうだけどな。いや、まあ、涼子ちゃんはすぐ友達作れるだろうから、そんなに心配でもないかな」
「ああ、そうだろう。それでな、話は変わるが……」
そう言うと、もう別の話題に移ったようだった。
二月も終わりごろ、引越しが決まっているので、仲のいい子にそれを伝えた。みんなとは一緒の学校に通えなくなる。それだけのことだとはいえ、やはり気が重い。仲がよかっただけに、余計に言いづらいものなのだ。
「え? りょうこちゃん、おひっこしするの?」
可南子は意味がよくわかっていない風だった。
「うん。西大寺ってところに住むんだよ」
「サイダイジ? どこにあるの?」
「ええとね、あっちの方にずっと遠くなんだ」
「そんなにとおくなの?」
可南子は不安そうな表情だ。
「うん、だからね……かなちゃんと同じ小学校には行けないんだ」
「え? ……どうして?」
「遠いんだよ。すごく」
「とおい……」
可南子は、次第に意味が理解できてきたようで、そうするとだんだんと涙目になっていく。
「りょうこちゃん、もういっしょにあそべないの?」
「う、うん……ずっとじゃないけど、なかなか会えなくなりそう」
可南子はそれを聞くと、さらに目を潤ませて、とうとう泣き出した。驚いた可南子の母親がそばにやってきて「どうしたの?」とふたりに尋ねた。涼子が引越しする旨を言うと、可南子の母は残念そうな顔をして、泣いている娘をあやした。
――出会いと別れ。人生には必ず訪れるもの。
涼子は、泣いている可南子を見て思った。この先も何度も繰り返されるだろう。可南子とは引っ越して以降、再会した記憶はない。所詮は幼児の頃の、懐かしい思い出の一ページとなって、記憶の片隅に仕舞われていく。
でも、それでも、悲しむ可南子の姿を見ていると、涼子も視界が潤んでくる。これから続いていく長い人生の、たった二年間の友達。それでも涼子の二年間に、確かに存在した友達なのだ。
「さみしくなるわねえ」
可南子の母親が、半泣きの涼子に向かって言った。
可南子は、涼子に何も言わなかった。何も言わず、母親に連れられて、幼稚園から出て行った。真知子は、「涼子ちゃん、帰ろうか」と言って、涼子の手を引いた。涼子も何も言わず、黙り込んだまま母と一緒に帰路に着いた。その間、何も喋らなかった。ただ無言で歩いた。
「そうなんだ。寂しいね」
悟は少し悲しそうだった。しかし、可南子に比べてあまり悲しんでいる風ではない。もともと悟は、無邪気なようで少し達観したような印象を感じることがあった。他の園児より大人びた雰囲気を持っているし、悟にとってはそんな感じなのかもしれない。
「でも、涼子ちゃんだもの。新しいおうちでも、きっとたくさんお友達ができるよ」
「うん、かなちゃんや悟くんと、遊べなくなるのは嫌だけど、きっとたくさんお友達作るんだ」
涼子はとびきり明るい笑顔を見せた。悟も同じように笑顔である。そんなとき、もうひとり別の友達がやってきた。秋頃から仲良くなったジローである。それまでずっと犬猿の仲で有名だったにも関わらず、知世のおかげで今では信じられないほど仲良くなっている。
そんなジローが涼子を睨みつけると、大声で叫んだ。
「どうしてなんだ、りょうこ! せっかくともだちになったのに!」
ジローは、どうも納得がいっていないようで、少し憤慨している風だ。引越して、同じ小学校に通えないことになったのを知って、それに憤慨している様子だ。
「お父さんの仕事だから、しょうがないよ。それに同じ学校じゃなくても、友達には変わりないよ」
「なんでだ! シゴトとかオレはしらん! トモダチなのにどうしてだ!」
理屈に合わないことをひたすら主張するジローに、涼子は苦笑いしながら、延々と説明する羽目になった。その様子を見た他の園児が、「りょうこちゃんとジローくんが、またけんかしてる」と勘違いして、先生を呼んできてしまい、涼子は先生にまでアレコレ説明をする羽目になった。結局そのあと、小一時間かけてようやくジローに納得してもらった。
「りょうこ! これをもっていけ!」
ジローは、何か小さな金属片のようなものを、涼子の前に突き出した。それはバッジだった。読売ジャイアンツのロゴマークの形をした(GとYを合体させた、あのデザイン)、ダイキャスト製の小さなバッジだ。実はジローは、巨人ファンだ。幼稚園でも野球の真似事みたいなことを、子分たちと一緒にやって遊んでいるのをよく見かける。どうして巨人ファンになったのかは不明だが、最近「オウサダハルのキロクをこえる!」だの、「おとなになったら、サンカンオウだ!」などと言っているのを聞いたことがある。
「これは?」
「ユージョーのアカシだ! こまったらそれをつかえ! オレがゼッタイにたすけてやる。ゼッタイだ!」
ジローは力強い握りこぶしを見せた。
「ありがと、ジローくん。大事にするね」
「おう、たすけてやるからな!」
卒園式は、とてもあっけないものだった。式自体は毎年のことで淡々と予定をこなしていくだけだ。それに合わせて卒園する涼子たちは行動する。終わったら、親たちと写真撮影だの何だので、涼子たちもあまり自由はなかった。
みんな仲のよかったともだちに、さよならを言って別れるが、また小学校で一緒になることもあって園児同士の悲壮感はない。先生との別れを悲しんでいる子はあちこちにいるが――あるのは、唯一違う小学校に入学することになった涼子だけだった。もっとも、涼子も予定された出来事が淡々と過ぎていくだけで、そこまで悲しい気持ちではなかった。ただ、改めて会えなくなることを思い出してか、ふたたび泣き始めた可南子の姿を見ると、やはり涙が出ないわけはなかった。
卒園式の翌週、藤崎家は引越しした。荷物は業者に運んでもらうのではなく、四月から創業する敏行の新会社用の中古トラックと、弟の哲也たち親戚が手伝ってくれて新居に運んだ。涼子も小物などを箱詰めして手伝った。
知世も一緒に来て手伝ってくれた。ジローに教えたら喜んでやってくるような気がしたが、遊んでいては怒られるのは目に見えているので伝えなかった。
近所で親しい小出家や山田家の人たちも手伝いに来てくれて、この日はとても賑やかだった。狭い家に不相応なくらい人が溢れていた。
国道二号線バイパスを走る、敏行の運転する車の窓から涼子は顔を出した。敏行の車の背後からは、叔父の哲也が運転する荷物満載のトラックがついてくる。
「涼子ちゃん、危ないわよ」
「うん」
涼子は、出していた頭を少し引っ込めるが、そのまま外の景色を眺めていた。隣では、翔太が昨日買ってもらったばかりの幼児向け雑誌、テレビマガジンを見ている。先月から放送開始された、スーパー戦隊シリーズの新番組「大戦隊ゴーグルファイブ」が特集されているのだ。大好きだったサンバルカンが終わった時は、とても悲しそうだった翔太だったが、今ではゴーグルファイブに夢中なようで、ずっと特集の写真を眺め続けている。
「翔くん、車では本を見たらだめでしょ。しまいなさい」
真知子が注意するが、翔太は憧れのヒーローの姿が気になってしょうがないらしく、未練がましくテレビマガジンの表紙を見ている。
いつもなら、涼子が翔太から本を取り上げて強引にしまい込むが、今の涼子にはそんな気にならなかった。おかげで翔太は、案の定途中で車酔いをして、道中半ばで一度休憩する羽目になってしまったが。
涼子は小学生から、新しい土地で新生活をスタートさせる。これまでよりも田舎の町で。
期待に胸を膨らませ、これまでより鮮明な記憶の残る新天地は、走る車の車窓の向こうに、涼子の様々な思いをのせてその姿を現した。
――いつのことだか、思い出してごらん。
ふと、卒園式で歌った「思い出のアルバム」を思い出した。
――あんなこと、こんなこと……か。確かに、いろいろあった。いろいろ……これからも、いろいろな思い出が生まれてゆくのだろう。知っていること、知らないこと……。
それからしばらく、涼子の頭の中で流れていた。




