曽我洋子
「大丈夫?」
そばまで来て涼子の手を掴むと、涼子が起き上がるのを手伝ってくれた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
涼子がお礼を言うと、「怪我はない?」と聞いてきたので「うん、ない」と答えた。すると、「よかった」と少女は微笑んだ。
少女は、小学生の高学年もしくは中学生くらいだろうか。さらりとしたセミロングヘアーに、優しそうな顔立ちが、涼子にはとても綺麗に見えた。実際、今はまだ子供でも、大人になったら相当な美人になるであろう、端正な顔立ちだ。
「この辺じゃ見ない子ね。どこから来たの?」
「お父さんがね、お引越しするの。——あそこの家」
涼子は、そこから北のほうに見える購入予定の家の方を指差した。
「あら、大沢さんの家ね。そうなんだ、それじゃあ――あなたのお家が来るのね。私はあっちの家に住んでいるのよ」
少女は道を挟んだ斜向かいの家を指差した。引越しする家より舗装道路に近い位置にある。少女宅よりさらに五、六メートル奥に入った向かいのところが涼子たちが引越し予定の家だ。
「わあ、そうなんだ。お姉ちゃん、近くなんだ」
「ふふふ、そうよ。私、洋子っていうの。よろしくね」
「私はね、涼子!」
「涼子ちゃんね。可愛いお名前ね」
洋子は微笑んだ。
涼子はこの少女を知っている。少女の名は曽我洋子という。そして、あの斜向かいのご近所さんは曽我家だ。そこの娘が目の前の少女、曽我洋子だった。引っ越してすぐに家族ぐるみで親しくなり、洋子には随分可愛がってくれた。とても懐かしい人だった。ちなみに洋子には、兄と弟がいる。彼らとも親しくしていた。
――そうだ。洋子姉ちゃんだ。中学生の頃にふたたび引っ越して以降は、どうしていたのか不明だが、少なくとも小さい頃はよく遊んでくれて、本当にお世話になった。
涼子は涙が出そうになった。洋子の顔を見るたびに懐かしさで心が震えた。
「どうしたの? ……もしかして、どこか擦りむいた?」
洋子は心配そうに涼子に尋ねた。
「ううん、大丈夫。どこも痛くないよ」
「そう、よかった」
ふと、翔太がやってこないことに気がついた。見ると、畑の手前でもじもじしながら、こっちを見ている。
「翔くぅん、どうしたの? こっち、こっち!」
涼子が呼びかけてもやってこない。もしかしたら、洋子に人見知りしているのかもしれないと思った。
「あの子は、弟?」
「うん、翔太っていうの」
涼子は翔太の元にやってきて、「あのお姉ちゃんはすごく優しいよ。翔くんにも絶対優しいよ」と言ってみたが翔太は何も言わない。しょうがないので、涼子が翔太の手を引っ張って、洋子の元に連れてきた。
「弟の翔太よ。ほら翔くん」
涼子の後ろにしがみついて顔を隠している翔太。やっぱり人見知りしているようだ。
「翔太くん、こんにちは」
洋子はニッコリと笑って、依然涼子の背後に隠れている翔太の頭を優しく撫でた。初めは顔を隠したままだったが、次第に慣れてきたのか、顔を見せるようになった。洋子はずっとニコニコしている。それにしても洋子の、この落ち着きはなんだろうか。思い出したが、今は小学六年生のはずだ。来年の春から中学生だった。しかしまだそんな少女であるはずだが、その物腰は大人のようである。うろ覚えではあるが、こっちに引っ越してから一、二年くらいは、ここまで大人びてなく、それでもまだ子供っていう感じだったような。
そんなことを考えていると、翔太が、涼子の背後から出てきた。安心できる人だと認識したのだろうか。ふたたび洋子に頭を撫でられた。今度は嬉しそうだ。
「おぉい、涼子。翔太。どうしたんだ?」
背後から敏行の声が聞こえた。振り向くと、敏行だけでなく、真知子や大沢も出てきている。工場の紹介はもう終わったのだろう。
「あ、お父さん」
涼子は敏行に手を振った。
「——じゃあね。お引越ししてきたら、また会おうね」
「うん!」
涼子は翔太の手を引いて、敏行のほうに向かって歩きながら、振り返って洋子に手を振った。洋子も笑顔で手を振っている。
大人たちのもとにやってくると、涼子は「お姉ちゃんがいた!」と後ろを指差して言った。少女の方を見ていた大沢が、
「ああ、曽我さんとこの娘さんじゃなあ。斜向かいの家ですよ」
と言った。大沢は洋子のことをよく知っているようだった。今は引っ越しているが、元々は近所の人だから当然だろう。
「じゃあそろそろ帰ろうか」
敏行が言うと、大沢は、「それじゃあ具体的な話はまた来週、よい返事をお待ちしています」と言って笑顔でお辞儀した。
「ええ、前向きに検討していますので、ではまた」
敏行は、家族が車に乗り込んだのを確認すると、自分も乗り込んで、窓から大沢に手を振って工場を後にした。
「予想以上にいい工場だった。金額も、あれなら安いくらいだ。家も悪くない。これは頑張らねばなあ」
敏行は興奮気味に話している。前に知人から詳しい状態を聞いた時には、もっとボロい工場だと予想していた。機械も残されたままであり、それも都合がよかった。
「これから忙しくなるわね。お金用意できるの?」
真知子は少し呆れ顔であるが、自信を漲らせる夫の表情に嬉しそうでもあった。
「なんとかする。絶対になんとかする。俺の工場を手に入れる。それから我が家もな!」
敏行の決意は、相当に固そうだった。
「親父にも借りなきゃあな。気が進まんけど、避けては通れん。お前たちには苦労をかけるかもしれん。でも、でもな、こんなチャンスはないんだ」
「まったく、あなたはいつも勝手なんだから。本当にがんばってね。この子たちのためにも」
「ああ、わかっている。よっしゃ! やるぞっ!」
叫んだ興奮のあまり、うっかりアクセルを強く踏んだ。急加速する自動車。慌てた敏行は、うっかり車を迷走させ、住宅の垣根に接触しそうになる。
「ちょ、ちょっと! しっかりして!」
「す、すまん」
どこか抜けている敏行の一大決断に、真知子は不安を拭いきれないが、自分は妻としてどうやって支えていくべきか、子供たちの未来のために必ず成功させていかねば、と心に誓った。




