西大寺
「とーきょーたわー、とーきょーたわーだあ!」
翔太は車窓の向こうにそびえる赤白の電波塔を見て、興奮気味に叫んだ。
「ほんとだ、東京タワーだよ、お母さん」
涼子も電波塔を指差して言った。
「あれは東京タワーじゃないのよ。ええと、何かしら?」
「おいおい、何かしらはないだろ。ありゃ電電公社のビルだろう。多分、その電波塔だ」
涼子たちが東京タワーだと言っている建物は、西日本電信電話、いわゆるNTT西日本の西大寺支所のビルの上に設置されている電波塔のことだ。吉井川にかかる永安橋のすぐ西側にある建物で、割合目立つ建物である。ちなみにこの時代は、まだ電話事業は民営化される前で(一九八五年に民営化)、まだ国営だったころである。略称は、敏行が言っている「電電公社」だ。
「さすがお父さんね、詳しいわ」
真知子は夫を褒めた。
「デンデンコーシャって?」
「電話の会社だよ」
「電話を作ってるの?」
「ははは、作っているというとなんか違うが……まあ、細かいことはいいか」
「すごぉい、ねえ翔くん、東京タワーで電話作ってるんだって」
「デンワ! トーキョーデンワ!」
翔太は意味のわからないことを言っているが、とにかく驚いているようだ。涼子はあくまで東京タワーだとか言っているが、もちろんあれが東京タワーだとは思っていない。何かは知っているのだ。子供っぽく振る舞うのと、ちびっこなら、このくらいの方が楽しいだろうと考えて、わざと間違えたままはしゃいでいた。
「さあ、目的地は吉井川を渡った向こう側だ。もう少しで到着するぞ」
「かっこいい! ヨシーガワ、かっこいい!」
翔太は、鉄筋の橋、永安橋をキョロキョロと見回して、嬉しそうに言った。もちろんだが、翔太がかっこいいと言っているのは、吉井川ではなくて橋の方である。
この永安橋は、吉井川下流にある鉄橋である。四連のアーチに桃色の塗装が特徴である。昭和七年に西大寺観音院のすぐそばに架けられ、以来、昭和六十一年に現在の”新”永安橋が開通するまで使われていた。鉄骨のアーチが並ぶ無骨なその佇まいは、とても存在感があり、地域住民に愛された。
涼子は、懐かしい……と、しばらく感慨深く見ていた。小学校を卒業する頃にはもう渡れなかったはずだ。もう一度見ることができるとは思わなかった。
永安橋を渡って、吉井川東岸地域にやってくる。こちらはもう、隣接する邑久郡(現在の瀬戸内市)かと思いきや、岡山市は東岸側にもあり、この永安橋を渡ったこの辺りの地域は、岡山市立由高小学校の学区になる。実はこの由高小学校が、涼子の通う小学校である。
「のどかねえ」
真知子は、田んぼの広がる自然豊かな風景を眺めていた。もちろん今はもう寒い時期なので、時期的に緑豊かな景観ではないが……。
「この辺は街からは離れているからなあ。バイパスがあるから、岡山には行きやすいけどな」
敏行も運転しつつ、周囲の景色をチラチラと見ている。
「ねえ、お父さん。お家どこ?」
「ははは、ここからじゃまだ見えないな。もうちょっとしたら見えてくるぞ」
吉井川と並ぶように流れる、干田川沿いをしばらく走る。左には干田川、右には民家がずっと並んでいた。
「このあたりだったかな。涼子の通う学校は」
敏行はキョロキョロと周囲を見ている。
「あなた、ちゃんと前を見て運転してよ」
「お、おう」
敏行は慌てて前を見た。
「ねぇ、お父さぁん。学校どこぉ?」
「多分この向こう辺りだと思うんだけどな。ううむ、見えない」
結局、建物の陰に隠れてしまっているのか、小学校の姿は見えなかった。
「……えぇ、学校見たい」
涼子は不満を口にした。
「またいつでも見れるでしょ。今日はお家を見に行くんだから」
とても懐かしいので、ひと目見たかったのだが、どうやら学校はもう諦めざるを得ないようである。
さらに走ると、ふいに敏行の表情が明るくなった。
「お、この辺りだ。そろそろ到着だぞ」
「ここだ。この建物が工場だぞ」
涼子たちの目の前にある大きな建物が、敏行が買おうとしている工場のようだ。屋根は五メートルくらいはあり、横幅はもちろんそれ以上にある。奥行きもかなりありそうだし、思ったより広い工場だった。もちろん自営の町工場では、と言うことだが。波型の薄灰色の壁は、おそらくアスベストの入ったスレートで、流石に中古だけあって汚れや破損、正面の大きな金属扉の錆がくたびれた印象だ。
「コーバ、コーバ!」
翔太は物珍しそうに見上げている。興味津々なんだろう。逆に涼子は新しい家の方が気になっているので、すぐに父に尋ねた。
「お父さん、お家は?」
「おう、こっちだ。あそこに見えるのがそうだ。早速行くか」
敏行は、家族を連れて購入する予定の家に向かった。その家は、工場の斜め後方にあって、一応工場の側から直接家の庭に入っていけるよう繋がっている。しかし、家の前で待ち合わせているため、一旦道路に出て、工場の隣にある畑を迂回して家の門の方に向かった。この辺りの道路は道幅もそれほど広くなく、交通量も大したことないので、割合閑静な印象である。
工場の隣の畑の向こうには、車一台分程度の砂利道がある。その先には左右にそれぞれ二件の民家が建っている。そのうち、工場側の民家が目的の家のようだ。
「翔くん、競争だよ!」
「あっ、お姉ちゃん、まって!」
急に駆け出した涼子に、ふいを突かれた翔太は、すぐに自分も駆け出した。
「こらっ、転んだら怪我するでしょ。歩きなさい!」
真知子は子供たちに注意した。
「どうも、藤崎さん。寒くなってきましたねえ」
町工場の持ち主、大沢文夫は笑顔で言った。
「大沢さん、どうも。――うちの妻です。それからこっちが娘と息子で……」
「これはどうもはじめまして。利口そうなお子さんですなあ」
「いえいえ、本当に手が掛かって困ってるんですよ。全然じっとしてないんだから。さっきも――」
「はっはっは、子供は元気が一番ですよ」
大沢は穏やかに笑う。大沢文夫は、敏行が購入しようと考えている町工場の持ち主である。「有限会社 大沢鉄工」の社長だ。大沢鉄工は、従業員三名でやっていたのだが、大沢以外のふたりの職人も中高年だった。片方の五十代半ばの職人は、すでに別の会社に転職したが、もうひとりの六十代半ばの老職人は、転職はせずに隠居するつもりでいた。が、もし敏行がここを買って起業するなら、働けるうちは働きたいとも思っているようだ。実は自宅も近所だったりする。
「さあ、案内しますよ」
この家は、現在誰も住んでいない。先月まで大沢が住んでいたが、今はもう姫路市に住む息子の元に引っ越していた。長く住んでいたこともあって、様々なところが傷んでいるが、大沢が住んでいた頃そのままな佇まいは、まだ誰かが住んでいても不思議ではないくらい雰囲気があった。
玄関は道から近く、道に面した簡素な門からわずか二、三メートルで玄関にたどり着く。庭の面積は見た目よりもう少し広いようだが、庭木が多い茂っており、人が立てる場所を圧迫しているようだ。だが、奥の方はもう少し開けているようにも見える。
そして、肝心の家の方だが、この時代のごく一般的な住宅としては、少し変わったデザインをしていた。
まず、玄関の周辺がコンクリートの箱型でできていた。そのせいか、固そうで無骨な印象だ。ねずみ色の外壁が一直線に七、八メートル立ち上がっている。上にも小さな窓が見えるので、上部には部屋があるのかもしれない。しかしそれ以外の部分は、割と普通の一般住宅のようだった。その辺りがアンバランスで、あまりデザインのいい建物とは思えなかった。しかし、泉田の借家に比べてみるからに広く大きい。古さはそれほど変わらないように見えるが。
涼子は、この家を見て本当に懐かしいと思った。確かにそうだった。こんな家だったのだ。不幸があって中学生になる頃には、この家を手放して引っ越したこともあり、この目で見るのは本当に久しぶりだった。
まさか過去でふたたび、かつての実家に再会しようとは……少し涙が出そうになった。
「涼子、どうしたの?」
真知子が涼子のおとなしい様子に気がついて声をかけた。
「ううん。なんでもない。お母さん、すごいね! 涼子のお家なの?」
「うふふ、そうね。ああ、でもまだ決まったわけじゃないけどね」
真知子も気に入っている風だった。
「中を案内しましょう」




