雨の中で
梅雨の時期は雨が多い。昨日も今日も雨だった。
雨の日ももちろん登園するが、その時はいつもと違う登園だ。
涼子の場合は徒歩なので、傘をさして行ってもいいのだが、雨合羽を着ている。足元は長靴だ。涼子を連れていく母親の真知子は、傘をさしている。
幼稚園児といえば、雨が降ると気分が高揚する子がいる。普段履かない長靴を履いている上、何が楽しいのか、水溜りでバシャバシャとはしゃぎまわる。涼子はそんなことはしないが、前方で親に連れられて登園している園児が水溜りに入って、必要以上に足踏みしている。当然水が跳ね飛んで、そばにいる母親にかかってしまい怒られている。
「涼子、そっちは水たまりがあるから、こっちを歩きなさい」
涼子は真知子に手を引かれながら、目の前の水たまりを回避して、幼稚園までの道のりを歩いた。そろそろ前方に幼稚園が見えてきたとき、ふいに声をかけられた。
「涼子ちゃん、おはよう!」
知っている声だ。声の方を見ると悟である。涼子と同じように黄色い雨合羽を着て、足元は緑色の長靴である。合羽のフードから覗く可愛らしい笑顔を振りまいて、こちらに向かって手を振っていた。
「あ、悟くん。おはよう」
涼子も挨拶を返した。悟と母親は、こちらに向かって歩いてくる。
「まあ、藤崎さんに涼子ちゃん。おはようございます。よく降りますねえ」
悟の母親は、ニコニコと微笑みながら、声をかけてきた。
「あら、おはようございます。本当ですわ。梅雨って本当に雨が多くて困りますねえ。洗濯物が乾かないし」
「本当、困りものですわ。それにジメジメして……」
ふたりの母親は、早速世間話を開始すると、そのまま幼稚園到着までずっと話し続けている。側で聞いていても他愛ない雑談に過ぎないが、涼子からすれば、よく会話が途切れないものだ、と不思議に思った。
「涼子ちゃん、僕の長靴ねえ。きょうはじめて履いたんだ」
ふと悟は、嬉しそうに話しかけてきた。確かにまだつやつやと綺麗な緑色の長靴は、雨に濡れていても、それが新品であることはわかった。
「ふぅん、そうなんだ。その長靴って可愛いね」
涼子は、自分の赤色の長靴と見比べて言った。涼子の長靴は半年ほど前、去年の年末に買ってもらったものだ。前から履いていたのが、窮屈に感じていたことと、いい加減汚れが目立ってきたので買い替えたのだった。なかなか色合いが好みで気に入っていたが、いざ悟の新品の長靴を見ると、そっちの方がいいなと思ってしまった。だからと言って、長靴買って欲しい、と言っても小言を言われて相手にされないことはわかりきっているので諦めた。
雨の中、笑顔で話しかけてくる悟だが、彼は一体なんなのだろう。
涼子の頭では、去年からの疑問をずっと引きずっている。
――及川聡美はどうなったのだろう?
この疑問がまだ、まったく解決していない。しかし、悟には姉も妹もいない。前の世界において、及川聡美という女の子がいた。しかしこの世界では、及川悟という男の子だけがいるのだ。
もしかすると、藤崎涼子が反対に、この世界において女の子として誕生しているように、及川聡美もこの世界においては、反対に男の子として生まれて、それが悟になったのだろうか。実際、名前が似ているし。自分自身がそういう状況だから、それも十分にあり得る話だ。しかし、ならどうして涼子と悟だけが変わってしまったのか? 例えば弟の翔太は、変わらず男の子として誕生した。容姿も面影がある。また、従姉妹の知世や、友達の可南子も変わっていない。可南子は幼稚園の頃のみの付き合いだったため、うろ覚えではあるが、やはり今と変わらない女の子だったと思う。
「――ねえ、涼子ちゃん?」
「えっ? ああ、ええと……」
ふと声をかけられて、あたふたした。
「どうしたの?」
悟は不思議そうな表情で涼子の顔を見ていた。まさか、悟が何者なのか、聡美はどうなっているのか、そんなことを言えるはずもない。
「ううん、なんでもないよ」
「そうなの?」
「うん。——あ、幼稚園だね」
いつの間にか、もう幼稚園の門の前まで来ていた。
雨の日は、傘や合羽を来て登園する園児が多いため、いつもは門のところで我が子を送り出す保護者も、建物の玄関までついてくる。そこでは、他にも園児の合羽を脱がせる手伝いをしている親などがいた。
「ほら、涼子ちゃん。他の子の迷惑になるから、こっちで脱ぎなさい」
真知子は、五、六人いた他の園児より少し離れた場所に涼子を呼び寄せてそこで合羽を脱がせた。最近、合羽を着せる機会が多いせいか、真知子はとても素早く簡単に脱がせた。
「りょうこちゃぁん、あそぼぉ!」
そう言って涼子のそばにやって来たのは可南子だ。
「うん、何する?」
ふたりは積木で遊んだ。四角、三角、丸……様々な形状の積木がある。どれも十センチあるか程度の大きさで木製である。結構頑丈な作りをしていて、角は大きめに丸めてあり、園児が怪我をしにくいようになっている。それぞれに様々な色が塗られているが、どれも使い古されているのか、どれも色がくすんだり剥げたりしている。
「かなのおうちなの!」
可南子は適当に組み合わせて、訳のわからないものを作り上げていた。ただ四角や三角を積み上げて、歪な箱状にしてるだけに見える。上に円柱を置いているのは煙突だろうか? 可南子の家には煙突が? と涼子は思ったが、幼稚園児のやることに突っ込みは野暮だと思った。涼子から見たら、あまり家らしい感じがしなかったが、可南子はとても満足そうであった。
「わあ、素敵なお家だね!」
涼子はとりあえず笑顔で褒めた。可南子は、ここがお母さんの部屋で、こっちがお兄ちゃんの部屋で……と楽しそうに説明している。
涼子はふと窓の外を見た。外はずっと雨が続いている。朝から降水量は変わっていない。この調子だと夜まで降り続けるのではないか、と思った。
「りょうこちゃん、どうしたの?」
可南子がやってきた。
「あ、うん。雨、止まないね」
「そうだね」
「そういえば、悟くんはどこに行ったんだろ?」
ふと、悟の姿を見かけないことに気がついて、可南子に聞いてみた。
「いないね、どうしたんだろ」
可南子もキョロキョロと室内を見渡しているが、どうやらいないようである。園児たちの賑やかな声が、教室内を覆い尽くしている。涼子は、そんな様子をぼんやりと眺めながらつぶやいた。
「本当どうしたんだろう」
悟はひとり、別の場所にいた。向こうから、園児たちのにぎやかな声が聞こえてくるなか、座り込んで何か考え事をしている風だった。
――涼子……ちゃん。きっと……。
心に何か秘めた考えがあるようだった。
――今のところは多分、まだ問題ない。ジローくんの家のお手伝い――小島孝子さんを引き離されてしまったのが痛いが……現状ではどうにもならない。次に賭けるが、奴らはもう動き出している……ほぼ間違いなく。
そう思って立ち上がると、園児たちが遊んでいる教室の方へ向かっていった。




