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小学六年生、そして未来へ

 リセットボタンを押した後の記憶はない。閃光に包まれ意識を失い、気がついたら布団の中で目が覚めた。

 見慣れた天井から、ここが自宅であることがわかる。少し混濁した意識が、次第にはっきりしてきた時、「涼子、早く起きなさい。学校に遅れるわよ」という母の声が聞こえてきた。隣を見ると弟の翔太がいる。さらにその向こうに父が寝ている。

 涼子は子供部屋に行って、服を制服に着替えると居間に行った。今では母がテーブルに朝食を並べている。

「お母さん、おはよぉ……」

「おはよう。翔太は?」

「まだ寝てたようだけど」

「起こしてきて。もうあの子はいっつも起きないんだから」

「はぁい」

 涼子は寝室にしている和室に、弟を起こしに行った。



 いつものように朝起きて、いつものように学校へ行く。集団登校の集合場所にはいつもの子供達がいて、友達の太田裕美が笑顔で近づいてくる。他愛ないことを喋って、一緒に笑って、何ひとつ変わらない日常が始まっていた。


 これは一体どういうことなんだろう。どうして、いつも通りの日常が続いているのだろう。今日は、あのリセットボタンを押した翌日だった。どうやって家に戻ってきて、その夜を過ごしたのか記憶がないが、翌朝、いつも通りの日常が始まっている。

 元の世界に戻る。涼子は本来の未来、確か二〇二五年……令和の自分に戻るものだと思っていた。何者か――世界再生会議の連中だ――に誘拐され、虚偽の世界に移行した、その時代に戻る……夢から覚める、そんなイメージを持っていたからだ。それが昨日までと、特に変わらない日常だなんて。

 しかし、学校に来てからひとつの違和感を感じることになる。


 「朝の会」の時、出席をとるのだが、男子の名前を呼んでいる時、ある同級生の名前が呼ばれなかったことに気がついた。

 そのある同級生は、朝倉隆之だ。男子は全員出席しており、休んでいる同級生はいないが、朝倉の名前が呼ばれなかった。朝倉は同じB組なので、呼ばれないはずはない。

 不思議だったが言い出せず、そのまま普段通りに授業が始まる。

 四時間目が終わり、掃除の時間が始まる。ちょうど、及川悟と一緒に焼却場へゴミを捨てに行くので、そん途中に朝倉のことを聞いてみた。

「ねえ、朝倉くんの名前が呼ばれなかったけど、どうしたのかな?」

「朝倉くん? だれだろう?」

「え? だって……あ、いや、ごめん。勘違いしてたよ。あはは」

 涼子は笑って誤魔化した。あまりの言葉に蝋梅し、それを隠すために笑った。

「そそっかしいなあ。そういえば、加納くん……早く元気になるといいんだけどね」

「えっ、加納くん?」

 突然、加納の名前が出てきて驚いた。昨日の刺された加納のか細い声が頭に蘇り、胸が苦しくなる。元の世界に戻った彼はどうなったのだろう、と思い不安が過ぎる。

「どうしたの?」

 悟は不思議そうに涼子の顔を見ている。涼子は慌てて「な、何かあったっけ?」と言った。

「涼子ちゃん、どうしたの? 加納くん、この間お父さんが事故で死んじゃったじゃないか。木曜日にようやく登校して来たけど、やっぱり元気なさそうだったから……」

 やはり、加納は死んでいない。そして父親が死んでしまった。これは間違いなく、ひとつの確信が浮かんだ。

「そうだった。私ったら、どうも忘れ易くて……うぅん、風邪かなあ」

「まだ寒いから気をつけないとね」

 悟は無邪気に笑った。そこには以前に感じられた大人の意識を持った雰囲気は感じられず、本当にこの時代の小学生という印象しか抱けなかった。


 涼子は、この世界が、やはり元に戻った世界だと思った。

 思い出したが、おそらく朝倉は存在が消えたのではない。彼はさまざまな工作をして、本来住んでいた北海道から、この岡山へ引っ越してきたのだ。本来、この時代の彼は、まだ北海道で暮らしているはずだ。

 そして加納の父親が、最近事故で亡くなっている。これも本来の世界である証拠だ。そして、加納慎也本人は、あの時ナイフで刺されて命を落としたはず。しかし、彼は父親を亡くして同級生に心配されている、ただの小学生として生きている。

 やはり、世界は元に戻っている。

 元の世界に戻った今、本当にこれでよかったのか、そんなことが頭に浮かんだ。しかしそれを確かめる術などない。

 また、もうひとつの疑問が浮かぶ。

 どうして自分だけ前の記憶が残っているのか。悟だけではない、休み時間に横山佳代や矢野美由紀とお喋りしている時も、彼女たちに「意識は大人である」という、これまで感じていた雰囲気はなかった。

 一体、どうなっているのだろう。

 しかし、その疑問に答えてくれる人はいない。


 休み時間に友達と廊下を歩いていると、金子芳樹に遭遇した。

「あ、金子くん」

「なんだ? ウルセェぞ」

 涼子を鋭い目つきで睨みつけて、そのまま立ち去っていく。

「涼子、金子くんなんかよく話しかけるよね」

「どうして?」

「どうしてって……金子くん、弟が交通事故で死んじゃったから。二年くらい前だったっけ? あれからみんなにケンカ売ってるし、こわいよねぇ」

 やはりだ。芳樹の弟も亡くなっている。

「あ、ああ……そういえばそうだったね」

 悲しい話ではあるが、芳樹の弟はやはり亡くなっていた。しかし、これが本当の世界だった。

 本当の……世界なんだ。

「涼子、授業始まるよ。行こ」

「――うん」

 涼子は複雑な感情を抱きつつ、本当の世界の――日常の中へ歩き出した。




 昭和六十二年四月、涼子は六年生に進級した。いよいよ後一年で小学校を卒業する。


 涼子は六年A組になった。担任は宗岡富美弘だった。背が高く実直な性格の教師だった。

「やったぁ! 今度は涼子と一緒よ」

 典子は嬉しそうに涼子に抱きついた。

 六年生になって、これまで特に親しかった友達全員と一緒の学級になった。

 西大寺に引っ越してきて初めて友達になった、一番の友達と言ってもいい村上奈々子と津田典子。

 一年生では教室が違ったけど、地区が同じで大の親友である太田裕美。

 最初は何故かライバル視されていたものの、後で仲良くなった真壁理恵子。

 一年生からずっと同じ業室で、長い付き合いだった奥田美香。

 同じくずっと同じ教室だった矢野美由紀。それに、美由紀の仲間、横山佳代。

 みんな大切な友達で、これまでの学年では、全員が同じ教室になることはなかったが、最後の六年生でようやく全員が一緒になった。

 平穏な日常。在り来りの日々が続く。

 もう未来がどうとか、過去をどうとか、涼子しか憶えていないことなど考えても仕方がない。そう、考えることもないんだ。そんなことを思い、友達の輪の中に入っていった。



 昭和六十二年六月。


 衣替えの時期で、みんな夏服に着替えて登校する。

「ぼくのブーメランJrが一番だって!」

 持田啓介は自分のミニ四駆「ブーメランJr」を友達に自慢している。

「でもおれのホットショットJrだって速いんだ。持っちゃんのブーメランにだって負けてないやい」

「でもこのビッグウィッグJrが最強だろ。何せ、最新だぜ!」


 レーサーミニ四駆は、田宮模型「現、タミヤ」が発売する電動の自動車プラモデルである。

 昭和六十一年の五月に「ホーネットJr」が発売され、翌月「ホットショットJr」、九月には「フォックスJr」などが発売され、人気を博していった。

 この年、昭和六十二年の十一月に、月刊コロコロコミックにて「ダッシュ!四駆郎」の連載が開始され、これ以降、漫画の人気とともにミニ四駆の人気は加速した。

 この頃はまだ黎明期の頃で、ラインナップはラジコンモデルの縮小版ばかりであったが、高価なラジコンなど憧れはしても、とても買ってもらえない小学生などにはちょうどいいキットである。


 彼らは、こっそりミニ四駆を学校に持ってきていた。それを見せあっているのである。教室で公然と見せびらかしているのだから、当然のように他の同級生たちに見つかる。

 この時は村上奈々子がそれを見つけて、担任の宗岡に告げ口した。

 彼らの自慢のミニ四駆はすべて没収され、きついゲンコツをお見舞いされた。

 しかし誰もそれを同情しない。六年生にもなって、バカだろあいつら、というのが感想だった。せめて自分たちだけで、こっそり見せあったらいいのに、教室におおっぴらに見せびらかすなんて……みんな呆れていた。



 昭和六十二年八月、夏休み。


 盆の頃には祖父母の家に行って、親戚が一堂に集まる。集まると言っても両親はどちらもふたり兄弟で、一堂にというほど大袈裟な人数ではないのだが。

 バブル景気もあってか、父親が仕事で忙しく、スケジュールが合わずに結局集まれない場合もある。今年は父、敏行の弟である哲也が盆休み返上で大忙しならしく、いとこの知世、純世姉妹とは会えなかった。しばらく会っていなかったこともあって残念だったが、まあこれは仕方がない。

 ともあれ、夏休みは例年通り、とても楽しい日々だった。



 十月、修学旅行。行き先は定番ともいえる奈良京都で、やれ大仏だ、二条城だ、平等院鳳凰堂だと忙しくも楽しい三泊四日だった。

 京都観光なら目玉のひとつといってもいい金閣寺だが、この時はギリギリ「昭和の大修復」の時期で、残念ながら見られなかった。雨も降っていたので、雨合羽を着て見学して回ることもあった。

 まあ、こんなこともある。なんだかんだ言って楽しめたことは間違いない。



 昭和六十三年、一月。

 涼子の生まれた昭和という時代も、残り一年となった。一年後の昭和六十四年一月、昭和天皇が崩御し、時代は平成へと移り変わる。昭和六十四年は、平成元年となる。

 変わりゆく時代の中で、涼子は今を生きている。


「やっぱりかーくんが一番ステキ!」

「えぇ、あっくんの方がカッコイイもん!」

 女子たちの間では、今年の夏にデビューしたアイドルグループの話題で持ちきりだ。デビュー時から人気絶大だったこともあり、涼子たち女子も当時から大人気だった。

「光GENJI」。ジャニーズ事務所所属のアイドルで、八十年代から九十年代辺りではおそらくトップクラスの人気を誇った。その人気は社会現象とも言えるくらいの凄まじさで、伝説的なスーパーアイドルである。

 ローラースケートで走りながら、歌って踊る様は、今見てもやはり凄いと感じる。

 ちなみに涼子は佐藤敦弘のファンらしく、津田典子は内海光司、太田裕美や村上奈々子は諸星和己のファンだそうだ。

 女子の多くはアイドルに夢中だが、男子では刑事だとか探偵などが人気のようだ。

「ぼくは将来探偵がいいなあ」

 悟は嬉しそうに言った。

「オレは警察だな。やっぱこう、バキュンとか、たいほする! とか、かっこいいじゃん」

「警察は警察でもやっぱり刑事だろ。やっぱ犯人たいほは刑事の出番じゃないか」

「でもさ、やっぱり探偵じゃない? 覇悪怒組おもしろかったし。少年探偵団とかいいなあ」

「魔隣組もおもしろそうだよね。少年探偵団ゆたか組とか結成する?」

「それいいね。リーダーはだれがやる?」

 悟とその友達数人は、刑事や探偵が将来の夢らしい。しかし、この中でその夢を叶えた子はひとりもいない。みんな別の道に進んでしまった。

 男の子はよくスポーツ選手に憧れるパターンはありがちだが、この当時の小学生には、警察(または刑事)や探偵も高い人気を誇っていた。


「寒いねぇ、また霜焼けができたよ」

 涼子は赤く晴れた指を見てつぶやいた。

「私もよ。ここと、こことかさ、痛いよねぇ」

 村上奈々子は自分の手を見せて渋い顔をして言った。

 教室の外は冷たい北風が吹いている。どんよりとした曇り空で、昼間なのに暗い。

「あ、見て。雪よ。雪が降ってる」

「あ、本当だ。積もるかな?」

「さすがに無理じゃない? もっとこう、バァってたくさん降ってきたら積もるかもしれないけど」

 窓の外で、ハラハラと舞う雪。今は二月。もう来月にはこの由高小学校を卒業するのだ。先日、「六年生を送る会」があったばかりで、いよいよ卒業という空気が高まってきていた。

 楽しい思い出がたくさんある小学校。何せ六年間も通ったのだ。

 この空模様も、涼子の心を代弁しているかのような気がした。



 三月、卒業式。涼子は六年間通った岡山市立由高小学校を卒業した。

 今まで五年間見てきた卒業式。今度は自分たちが主役なのだ。何度かやった予行演習ではない。本当に、ひとりづつ名前を呼ばれ、卒業証書を受け取る。

 小学校を卒業するのだ。そんなことを実感しつつもこの時、特に感傷的な気分はなく、ずっと緊張していた。普段、ふざけて厳粛な空気を壊そうとするような男子も、この時ばかりはとてもおとなしくなっていた。


 在校生たちに見送られ、正門を母と一緒に歩いていく。門を出る手前、ふと後を振り向いた。大きな鉄筋の新校舎がそびえている。入学時にはまだなかった、新しい校舎だ。たった六年間とはいえ、あの増設された新校舎のおかげで、随分印象が変わったものだとしみじみ思った。

 足を止めると、六年間の思い出が頭を駆け抜けていく。たくさんのことがあった。本当に――本当にたくさんのことがあった、思い出の学び舎。

「涼子どうしたの?」

 母の真知子が、立ち止まった涼子に声をかける。

「ううん、なんでもない」

 涼子はすぐに歩き出した。

 ――未来へ。

 ――私の未来へ。

次回、「エピローグ」で最終回です。

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