リターンガール(後編)
美由紀はどこにいるのか。そう遠くには行っていないだろうと思ったが、意外にもあっさりと見つかった。校門の脇に隠れていた。涼子と悟が近くまで来ると、美由紀の方から出てきた。
「ミーユ、こんなところにいたの? てっきり外に出たのかと思ってたけど」
「あんまり遠くに行ったら探すのが大変でしょ。だから隠れて待ってたのよ」
美由紀はリセットボタンを涼子に渡した。
「これ、涼子の役目だよ。なんて言うか、本当にこれで元に戻るのか、実感がわかないけどさ。がんばってね、涼子」
「うん、それじゃ――」
涼子が箱を開けようとしたとき、数人がこっちに向かってくるのが見えた。彼らもこちらに気がついたようで、何やら罵声を喚きながら走ってくる。
「これはまずいな」
「涼子、とりあえず逃げて!」
「わかった」
涼子はすぐに校門の外に出ようとした。が、ふたりの中学生が外から校門の方へ向かっているのが見えた。
「涼子ちゃん、こっちだ」
悟は杉本の仲間たちがいない、体育館の裏方面へ涼子を誘導した。そして、駆け出そうとして美由紀がついて来ないことに気がついた。
「ミーユ!」
「ここは私が引き止めるから、早く!」
美由紀は、涼子たちが駆け出すのを見送って、涼子の後を追おうとする奴らの前に立ち塞がった。手には竹箒を持って構えていた。
「ここから先は行かせないわよ!」
美由紀は竹箒を振りまわして、杉本の仲間たちを妨害した。
「何しやがる、このガキ!」
しかし、いくら背が高く運動神経のいい美由紀とはいえ、中学生相手には敵わない。結局簡単に反撃された。しかしそれでも役目は果たした。彼らがふたたび涼子を追おうとした時、もう涼子の背中は見えなかった。
体育館の南側から学校の外に出ようとしたが、やはり外に逃げられるのを警戒したのか、杉本たちは外からやってくる。
「待ちやがれってんだ!」
大島がふいをついて、涼子と悟に襲いかかった。涼子の服を掴んで引っ張る大島。
「きゃあっ!」
思わず転げそうになるが、悟がうまく補助して転倒を回避した。挙句に、大島の顔面に見事なストレートパンチを食らわした。
「痛ってえ!」
鼻を押さえてその場に膝をつく大島。
「涼子ちゃん、大丈夫?」
「ありがとう、悟くん」
しかし、その目の前にまたひとり立ちはだかった。今度は杉本だ。
「おいおい、ふざけんじゃねえぞ……その箱を寄越しな」
「お断りするに決まってるでしょ」
涼子は思い切り睨みつけるが、まったく効果はないようだ。
が、突然、杉本が真横に吹き飛ばされた。
あまりのことに何事かと思ったが、そこには金子芳樹の姿があった。
「か、金子くん!」
「ヨォ、苦労してるみてぇだな」
芳樹はニヤニヤしながら涼子を見ている。涼子はハッと気がついた。芳樹はこのリセットボタンをどう思っているだろうか。彼は、彼の弟が死の運命から逃れることを目的に動いていた。そしてそれは達成されたが、リセットボタンが押されて世界が元に戻るということは、芳樹の弟も事故死したことに戻ってしまう。芳樹はこのボタンが押されることを願ってはいないだろうことが予想できた。
「あの、金子くん……」
涼子が恐る恐る声をかける。
「何だ?」
「黙って見逃してくれ……る?」
「さあて、どうするかな……!」
突如、芳樹は涼子に向かって飛びかかった。思わず涼子は身を屈めて、さらに悟が涼子の前に飛び出す。
が、芳樹の体は涼子たちを通り越して、その後ろにいる大島に体当たりを食らわした。大島が密かに、後ろから襲い掛かろうとしていた。
「金子くん!」
「さっさと行け! そしてそのボタンを押しちまえ!」
「で、でも――」
予想外な言葉にたじろいだ。まさか芳樹に押せと言われるとは思ってもみなかった。
「和樹は……和樹は、もう死んでいるはずなんだ。……やっぱりあの時に死んでいる。だからよ、いつまでも現実から目を背けて、夢の中で無様な姿晒して生きているわけにはいかねえんだ!」
「金子くん……」
「だからさっさと逃げて、そのボタンを押して現実に戻るんだ。 藤崎……いい夢見させてもらったぜ。——ありがとよ」
芳樹は最後までこちらを向かなかったが、その表情には、吹っ切れた清々しい顔があったのだろう。涼子はそう思えた。
周囲は薄暗くなっている。茜色の空はもうなく、日は暮れていた。そんな中、リセットボタンを押すべく、逃げ惑う涼子と悟。多分、こんな中で押したって作動しないだろう。もっと落ち着けるところでないと。
運動場ではやはり何人かの杉本の仲間が追いかけてくる。校舎の方へ行きたかったが、そちらから追いかけてきたために、反対に隠れにくいプールがある方へ逃げることになった。
涼子は、じわじわと追い詰められていく感に焦りが見えてくる。それは悟も同様で、一体どこに行けばいいのか、いっそのこと学校を囲むフェンスをよじ登って校外で脱出できれば、と思ったが、ヘンスの向こうに用水路があり、その用水路を飛び越えなくはならない。それはちょっと難しかった。
ふと自分たちの前に立ちはだかった一団があった。薄暗い中で突然のことに驚いたが、彼らは加納たちだった。
「今ボタンを持っているのは藤崎さんですかね」
「そうだけど……あの、加納くん。本当に押してもいいの?」
「構いません。終わる時が来たのです」
加納は自分たちの背後を指差して言った。
「では、あのローラー滑り台の上で押してはどうですか? 邪魔者もすぐには近寄れないでしょう。我々も協力しますよ」
「加納くん……」
「涼子、さあ行って。杉本たちが向かって来てるわ」
早苗が言った。
「さな、わかった!」
涼子はそう言って駆け出した。
「及川くん、涼子を守ってあげて。ここは我らが守――うぐっ!」
言い終わる前に、早苗がうめき声のような苦しい声をあげて倒れ込んだ。
「ふざけんじゃねえ……ふざけんじゃねえぞ!」
そこに現れたのは、杉本だった。数人の仲間も一緒のようだ。
すでにだいぶ暗くなってきていたので、杉本たちが近づいてくるのに気づかなかった。
「もう終わりなんですよ。往生際の悪い人だ」
加納は、あくまで阻止しようとする杉本に不快感を感じている。もう悪あがきでしかないというのに。
「うるせぇ……この世界を、俺が世界を支配する……この世界を終わらせるわけにはいかねぇんだっ!」
杉本は絶叫し、猛然と涼子に向かって突進した。そしてその手には、何かが握られていた。
足がすくんで動けない涼子。その視線の先は杉本の手元に向けられていた。薄暗い中で、何か金属質のもの……刃物だ。ナイフと思われるものを突き出して突進してくる。まさかそこまでするのか、と驚愕する。
杉本が涼子にナイフを突き刺した……かに見えたが、涼子はどこも痛くない。しかし杉本と自分の間にひとり挟まっているのにっきがついた。
「だ、大丈夫……ですか?」
その声は加納だった。加納が涼子と杉本の間に割って入ったのだ。
「か、加納くん!」
涼子は驚いて声をあげた。
「か、加納……てめえ!」
杉本がそういった次の瞬間、引き剥がされるように、後ろに向かって引っ張られて転倒した。悟が後ろから、肩を掴んで思い切り引っ張ったのだ。転倒時に後頭部を打ったのか、白目を剥いて気絶している。
「加納くん、こ、これ——」
涼子は抱きかかえた加納の腹に何か付着しているのに気がついた。もう考えるまでもない、血だ。杉本のナイフで腹を刺されたようだ。
「加納さま!」
早苗が血相を変えて近づいてくる。
「き、救急車! 救急車を呼んで!」
涼子は叫ぶ。電話もないのに、呼べるわけない。それでも叫ばずにはいられなかった。
「もう、いいのです。さあボタンを……」
加納の苦しそうな顔が、薄暗い中でもわかる。
「それどころじゃないでしょ!」
「ふ、藤崎さん……もう戻りましょう……さあ、リターンガール。……その時が来ました……」
加納の声が次第に弱くなっていくのがわかる。命の灯火が消えかかっているのが感じられた。
最後の力を振り絞り、震える手で空を掴もうとした。
「お父さん……僕の誕生日……楽しかった……お父さんとお母さんと……冬の大三角形……もう、夢から覚める……時が、来た……」
加納の言葉が途切れると同時に、その手が落ちた。
「か、加納くん? 加納くん!」
涼子は再び叫ぶ。両目から涙が溢れる。
周囲の空気が重い。もはや杉本の仲間たちも、涼子を拘束しようとするという気は失せてしまったようだ。ただ呆然とたちすくんでいるだけだった。
「……涼子ちゃん、やろう。こんな世界のままでいいわけがない。元の世界に戻るんだ」
悟が言った。
「……うん」
しばらく泣いて、少し落ち着いたのか、加納を早苗に預けて立ち上がった。
「元の世界に——」
涼子は足元に落ちていたリセットボタンを手に取って、蓋を開けた。そして、そのボタンを見る。
その時、人影がフラフラと近づいてくるのに気がついた。見ると、それは山田だった。薄暗くて表情はわかりづらかったが、まともではない顔をしていた。
「……世界を……支配する……俺たちが……支配する……よこせ! そのボタンを寄越せぇ!」
突如狂ったように叫ぶと、全速力で涼子の元に駆け出してきた。
「涼子ちゃん、滑り台の上だ! ここは任せて!」
悟は走ってきた山田に掴みかかって、涼子に近づくのを阻止する。
「悟くん!」
「早く、ボタンを!」
「わかった!」
涼子はローラー滑り台の上に登っていく。薄暗くて少し危ないが、よく遊んだ遊具だ。全然怖くない。あっという間に上まで登ると、そこで改めて箱の蓋を開く。
下では悟と山田が取っ組み合いになっていた。加納の側近が悟に協力して山田を抑えようとしている。彼らも協力してくれている。
ボタンを見つめ、一度、大きく深呼吸した。さまざまな想いが頭の中を駆け巡る。
「懐かしい昭和の時代よ、さようなら。元の世界へ。本当の世界へ。さあ、もう帰ろう!」
涼子はリセットボタンを押した。
その瞬間、とてつもない閃光が視界を迸り、真っ白になっていった。そして……意識は次第に遠のいていった。




