罠
涼子が戻ろうとした時、ふと怪しい影が目に入った。便所のさらに奥には、野外活動用の自然に囲まれたエリアがある。その樹々に隠れるようにしてこちらを見ていたのは、上から下まで黒い服を着ており、全身黒ずくめの人間だ。黒い帽子にサングラスで、大人か子供かはわからないが、背丈は中学生くらいのあまり背の高くない印象である。割と丸っこい体型をしているようにも思える。
涼子は嫌な予感がした。初め、美香のことが頭に浮かんだが、そうではないと直感した。こちらを見ているようであり、その黒づくめは涼子を狙っているように思えたのだ。しかし、あんな怪しい奴が近くにいるのに、美香をひとりにはしておけない。
涼子は美香の方を見た。座りこんでじっとしているが、黒づくめに気がついている様子はない。
どうしたものか、立ち止まって考えた。あの黒づくめは、何者だろうか? 加納の手下だろうか……涼子はこれから集会場へ戻るが、確かこれを加納たちは阻止しようとしている。一定時間、戻ってくるのを遅らせようとしているのだ。それだったら、それほど危険でもない。それがどういう影響を及ぼすものなのか、それはまだ涼子たちにはわからないからだ。
しかし問題がある。あの怪しげな不審者が、加納とはまったく関係ない場合だ。その場合、強盗や誘拐などの「犯罪者」や、女児への悪戯目的などの「変質者」の可能性が出てくるからだ。これは本当に洒落になっていない。冗談ではなく、本当に命の危険に晒される。涼子もそうだが、バス酔いで弱っている美香は特に危険だ。
すぐに先生か、ここの職員に助けを求めに走るか。しかしその隙をつかれて、美香が襲撃されたら……。
散々迷った挙句、涼子は少し違う行動をしてみた。本当はこのまま集会場へ向かうのだが、中庭を横断して、別の方へ歩いていくようにしてみた。
これでどういう反応を見せるか、注意してみる。
しかし、どうも動きがない。ずっと横目で監視していたが、木の陰から動こうとしない。涼子を追従する気配がないということは、加納の件とは別の可能性が出てきた。これは、実際の犯罪者の可能性が俄然高まってくる。こうなると美香を置いてこの場を去ると、冗談ではなく、本当に美香が危険である。
このまま中庭を横断して向こう側に行ってしまうと、美香と離れてしまう。これは不味い。先生……大人を呼んで来なければ、と考えるが、この状態では先程の懸念通り、自分が呼びに行っている隙に美香が襲われるかもしれない。
涼子はこっそりと黒づくめの姿を探した。まだ最初に見た場所から移動している様子はない。これはもしかして、美香を襲うために、涼子が去るのを待っているのではないか、と思った。
ふと、中庭の片隅に掃除用具が置かれているのを見つけた。この箒を持って、こっそりと背後に回って、あの不審者を攻撃してみてはどうかと思った。あまり身体能力が高そうな体型をしていないので、怯んだ隙に美香を連れて一気に走って大人を呼ぶ。
これでいけるんじゃないかと思った。実際には、それはかなり危険で、一目散に人を呼びに行った方が安全だろう。しかし涼子にはそんな考えができるほど冷静ではいられなかった。
普通に歩いているふりをして、中庭の片隅に置かれた竹箒を手にする。
そして、こっそりと建物の奥を伝って黒づくめのいる野外活動エリアの中に入った。そして黒づくめの姿を探す。
すぐに発見した。真っ黒い背中が見える。その背中目掛けてこっそりと近づく。
が、ふいに腕を掴まれた。心臓が飛び出そうなくらい驚いたが、振り向いたそこにいた者にも驚きを隠せなかった。
中学生か高校生と思われる少年が三人、その内ひとりが涼子の腕を掴んでいた。三人とも人相も態度も悪い、いわゆる不良という容貌だ。あまり屈強そうな印象ではないが、涼子にとってはとても歯が立ちそうにない。
「藤崎涼子だな? ……ちょっとな、そっちで待っててくれねえか?」
不良のひとりが言った。
「ど、どうして?」
「どうしてもだ。別に誘拐しようってんじゃねえよ。もう少しここで待ってりゃいいだけなんだ。へへへ」
ニヤニヤと薄気味悪い笑みを浮かべる不良。
この時、この不良たちは間違いなく加納の手下だ、と直感した。ここに涼子をしばらく留めておくことで、加納に有利な何かが起こるということなのだ。黒づくめに気を取られて、そこまで気が回っていなかった。
涼子は結局、加納の罠に嵌まってしまった。
「そういえば、みっちゃんと涼子、遅いね」
太田裕美が言った。一緒にいた涼子の友達たちもそれに同意し、どうしたんだろう? と心配している。
そこに悟が顔を出して、「僕が探しに行ってみようか」と言った。
「うん。もしかしたら迷子になってるかもしれないよ。探しに行こう」
裕美が言った。しかし、佐藤信正がそれを阻んだ。
「いや、そのうち帰ってくるだろ。わざわざ行かなくても」
「そんなこと言っても、初めての場所なんだよ。うっかりわからなくなってるかもしれないじゃない」
裕美が反論し、他の女子がそれに同調した。
「そうだね。一応近くを見てきてもいいと思う」
悟が言った。そして、こっそりと佐藤に目配せした。佐藤は横目に加納を見て、小さく頷いた。
佐藤は予定通り悟を引き留めた。しかし、これは予め朝倉たち仲間と示し合わせていた作戦だった。
一旦、ここで加納たちの作戦に合わせたようにして、その後に何らかの理由をこじつけて集会場を出て行こうとしているのだ。
ただ、これも本当にこれが正しいのか、佐藤にもわからなかった。こんな作戦は、加納は織り込み済みなのではないか、何かうまく加納の求める作戦に誘導されているのではないか、そんな考えがずっと頭から離れない。
涼子の友達、真壁理恵子が言った。
「わたしが行ってくるわ。及川くん、女子便所に入る気?」
「いや、そういうわけじゃ……」
悟は困ってしまった。どう言ったものか、言葉に詰まる。が、流石に頭の冴える悟である。すぐにいい理由が閃いた。
「実はちょっと我慢していたんだけど、オシッコしたいんだ。奥田さんはともかく、多分涼子ちゃんは中にはいないんじゃないかな。便所に行くから、その時見てくるよ」
そう言って悟は、集会場を出て行こうと立ち上がった。
加納は、涼子たちを探しに行こうとする同級生たちの様子を、無表情のまま眺めていた。
――ふふ、予定通りに動いていますねえ。
無表情ではあるが、内心笑っていた。
――早く行きたまえ。それでいいのだよ。
佐藤に悟が探しに行くのを阻むように言いながら、実際は悟が探しに行って欲しいようだ。佐藤は加納に味方することはないだろう、だから反対のことを依頼した。そして、まさに思惑通りのことをやろうとしていた。
そんなとき、加納の後ろから、誰かが立ち上がった。
「俺も便所に行ってこようと思ってたんだ。おい、一緒に行こうぜ」
そう言ったのは、金子芳樹だった。ズカズカとのし歩き、こちらを見て足を止めた悟の元に行った。
「あ、ああ。そうだね。一緒に行こう」
悟は予期せぬ出来事に、戸惑いを隠せない。が、それを断ることも難しい。やむなく一緒に出て行くことになった。
加納はそれを苦々しく思った。芳樹が何かしらの邪魔をするのは予期できたことだったが、まさかこのタイミングで出しゃばってくるとは想定していなかった。
さらにもうひとり立ち上がった。加納早苗だった。早苗は、加納に密かに目配せして、そばにいた同級生に「私もお便所に行ってくる」と伝えると、すぐに悟たちの後を追うように出て行った。
黒づくめがやってきた。
「おう、捕まえたか」
「はい、簡単なもんっすよ。こんなガキ」
黒づくめの男は加納の仲間だった。どういう経緯で、そんな格好で木の陰で様子を伺っていたのかは知る由もないが、加納の仲間であることは間違いないようだ。もしかしたら、涼子の注意をひくために、あんな黒装束で見張っていたのかもしれない。
「もうちょっと待ってくれりゃあいいんだ。まあ、ゆっくりしてくれや」
黒づくめの男は、ニヤニヤしながら涼子を眺めている。
「ちょっとって、何様のつもりよ!」
涼子は強気に吠えるが、この男たちには効果がないようだ。
なんとか逃げないと、と思って、自分の腕を掴まれているこの状態を抜け出さないといけないと考えた。
涼子は、ふと左腕を掴んでいる手が緩んだのに気がついた。それを見逃さず、思い切り左腕を振った。勢いで掴んだ手が離れる。右腕を掴んでいた、男の腕を勢い任せで思い切り叩いた。
「あいてっ!」
うっかり掴んだ手を緩めてしまった。涼子は素早く男に体当たりするように体をぶつけると、男はバランスを崩して尻餅をついた。そして、完全に手を話してしまった。
思った以上にうまくいったが、しかしそれはこの男たちを怒らせてしまった。
「て、てめえ!」
周囲の男たちがいきり立つ。そして、逃げようとする涼子の足を蹴飛ばした。前のめりになるように転げる涼子。振り返ると、怒りの表情の男たちに囲まれていた。
これはかなり不味い状態だと思った。捕まると乱暴されかねない。頭が真っ白になりそうなくらいの恐怖が込み上げてきて、ガタガタと体が震える。焦りと恐怖でうまく立ち上がれない。
涼子は半泣きの状態で叫んだ。
「お、おかあさぁん! ……た、助けてぇ!」
「――おう、任せておけ」
ズシリと重い声が聞こえた。




