山の学校始まる
涼子たちがまだ外で美香を休ませているとき、他の生徒がゾロゾロと施設の中へ向かって、並んで入っていく。友達同士で和気藹々とお喋りしながら歩いている子もおり、皆楽しそうである。集会場まではそんなに歩かない。正面から入ったら、すぐ曲がって奥へ歩いていくだけだ。
二列くらいで並んで歩いているのだが、ふと、ひとりの生徒が敷地のずっと奥の方に、珍しいものを見つけた。
「あ、あれ——タヌキじゃねえの?」
狸っぽい、茶色い動物がいるのを見つけたようだ。由高小の生徒は田舎育ちだが、夜行性である狸はあまり見る機会がない。山に近いあたりであれば、見かけることは少ないが、生息してはいるような気がする。ちなみに、この昭和六十年代ともなると、野良犬も見かけることが滅多になくなった。野良猫は割と見かけるのだが。
「ほんとだ。すげえ、タヌキがいた!」
「え、どこどこ?」
あっという間に騒然となった。
「あ、あそこにいる! かわいい!」
数人の女子も、タヌキを見つけてはしゃいでいる。
「おい、タヌキつかまえようぜ!」
男子の中で数人がそれに同意し、先頭を進んでいる関口が気が付いていないのを見計らって、こっそりとタヌキの方へ向かって行った。
「ちょっと待った。そんなことやってると先生に怒られるよ」
悟は呼び戻そうとしたが、山の学校にやってきて気が大きくなっている悪ガキには、もちろんそんな言葉は聞こえていない。しかもその時、職員と何か話していた関口は気がついていない。そのまま生徒たちの列は、悪ガキたちを残して集会場へ入って行った。
「何? 宇野たちがタヌキを追って行ったぁ?」
普段あまり表情が変わらない関口だが、この時は珍しく驚きの表情に変わっていた。
「はい、あっちの中庭の奥の方です――」
「まったく、あいつらは……連れ戻してくるから、このまま待っていろ」
関口は並んで座っている生徒たちに、そう言ってから集会場を飛び出していった。
少し遅れて涼子たちは集会場へやってきた。が、そこで飛び出してきた関口に遭遇した。
「あら、関口先生。どうされたんですか?」
「いや、宇野や武藤らが勝手に動物を追っかけて行ったらしくて。連れ戻しに行ってくるところです」
「私も一緒に行きます。涼子ちゃん、みっちゃん。みんなこの中にいるから、そこで待っててね」
「はい」
涼子が返事をすると同時に、関口が早足で行ってしまった。斎藤もその後を追いかけるように行ってしまう。それを見届けて、ふたりは集会場へ入っていった。
「あ、みっちゃん、涼子。こっちこっち」
太田裕美が集会場の入り口に姿を表した涼子たちを見つけて呼んだ。ふたりはそれに気がついて、並んで座っている同級生たちの集団の中で、裕美たちのいる方へ歩いていく。そしてB組女子の列の一番最後に座った。裕美や真壁理恵子、横山佳代や矢野美由紀たち親しい友達が集まってくる。
「ねえ、大丈夫なの?」
みんな美香の容態を心配している。その集まりにA組の友達たち、村上奈々子や津田典子らも集まってくる。担任教師たちはおらず、少年自然の家の職員は、「みなさん、しばらくゆっくり休んでいてください」と言って自由にさせていたこともあり、親しいもの同士で集まってお喋りを始めている生徒もいた。
「……大丈夫」
絞り出すように答える美香だが、まだ顔色が悪い。バスの中に比べればよくなってはいるのだろうが、まだ完全に回復したわけではないようだ。
心配そうに感じた同級生の女子たちが、ぞろぞろと集まってきた。しかし、みんなに囲まれていたら休めないからと涼子が言って、離れてもらった。
「涼子」
美由紀が言って目配せした。それに答えるように小さく頷く涼子。美由紀は、そろそろ動きがあるから、と言いたかったようだ。涼子はそれをちゃんと理解していた。
おそらく、もう少ししたら美香が気分の悪化に耐えられなくなり、やはり吐くために便所へ向かうことになる、はずである。
少しして、美香がまた青い顔をしてきた。涼子は「大丈夫?」と尋ねるが、返事がまともに帰ってこない。
「ねえ、お便所に行って吐こうよ。そうしたらスッキリするんじゃないかな」
「……うん」
あまり乗り気ではないものの、おそらくこのままではいつまで経ってもよくなりそうにないと判断したのか、美香は同意したようだ。
「すいません。奥田さんがやっぱり気分が悪いそうなので、洗面所に連れて行ってもいいですか?」
集会場にいた職員のひとりが、「場所を案内するわ」と言って美香と涼子を連れて集会場を出て行った。
和気藹々とした男子の中に、加納慎也がいる。涼子たちが出ていくのを横目で見て、誰にもわからないくらい小さく微笑した。
朝倉隆之は、悟や佐藤、岡崎たち男子たちと一緒にいたが、涼子たちを見て四人で見合わせ、声にならないくらい小さい声で「いよいよだ」と言った。悟たちがその声まで聞こえたのかわからないが、何を言ったのか、それはわかっているようだ。
集会場から出て、便所に向かう。便所は施設の奥の方にあり、少し歩かなければならなかった。涼子たち生徒が宿泊する部屋が中庭を挟んでズラリと並んでおり、そこを通りぬけた先だ。三人は女子便所に入って、美香だけ個室に入っていった。その背中を心配そうに見守る涼子。
案内してくれた職員は、涼子に声をかけた。
「慌て戻ってこなくてもいいからね。よくなったら、あの辺の風が当たるところで少し休んでいた方がいいわ。それから、あそこに水道が見えるのわかる? そこで口を濯ぐといいわ。まだまだ時間があるから。それじゃあ、私は先に戻っているから」
「はい、どうもありがとうございます」
涼子は去っていく職員の女性の背中にお礼を言って、美香の入った女子便所の個室を見た。そしてすぐに、今吐いたのであろう音が聞こえてきた。
しばらくして、美香がげっそりした顔で出てきた。
「みっちゃん、大丈夫?」
「……うん。今度こそ大丈夫だと思う」
「あそこに水道があるから、そこでうがいしようよ」
「うん」
その後、美香は中庭の片隅に座って休むことにした。涼子も一緒に座り、美香の様子を横目に見ていた。明らかに顔色が戻ったように思え、もう少ししたら集会場へ戻ろうかと思った。
涼子が「もう戻る?」と聞くと、美香は「私はもう少しここにいるから、先にもどってて」と言った。
「場所わかるよね」
「うん。迷子になるほど迷路みたいなところじゃないから、大丈夫」
涼子は美香に小さく手を振って「それじゃ、また後で」と言って別れた。




