小島昭三
涼子は家に帰ってくると、早速台所に向かった。カチャカチャと音がしていたので、母親の真知子がいると思ったのだ。案の定、真知子は湯呑みを食器棚から取り出して、お茶の用意しているところだった。
「お母さん、今日斎藤先生がくるからね。ちゃんと準備してよ」
「はいはい、だからこうしてやってるんじゃないの。先生は何時ごろ来られるの?」
「うちが一番最後だから、まだ三十分以上はかかるような気がする」
「まだ余裕があるわね。――涼子、早く着替えなさい。あんたもちゃんと準備しておきなさいよ」
「はぁい」
涼子は返事すると、早速子供部屋に戻って服を着替えた。服は比較的最近買ってもらったもので、気に入っている服だ。やっぱり先生が家にやってくるとなれば、一番お気に入りの服がふさわしい。
この日に合わせて、お気に入りのシャツとスカートを着ずに温存していたのだ。うっかり昨日などに着てしまうと、今日は洗濯されて着ることができないからだ。
時計を見るとまだ早い感じがする。しかし待ち切れないのか、ソワソワしている。
毎年のことではあるが、先生が家にやってくるというだけでドキドキしてくる。普段、学校でしか会わない先生が、家にやってくるなどという非日常が涼子の胸を昂らせるのだ。
どうも落ち着かないので、外に出て待つことにした。
涼子は家の外に出た。今、誰の家だろうか。裕美は終わったかな? なんて考えながら斎藤を待った。
最初は因果のことも気にかけていたが、この辺から因果のことはほとんど頭に残っていなかった。もう「先生まだかなぁ」で頭がいっぱいである。
「——お、お嬢ちゃん! あぶない! 避けて、避けて!」
ふいに大きな声が後ろから聞こえて、振り返ると、向こうから自転車に乗った若い男が慌てた様子で叫んでいた。それに気づいた涼子は素早く道の脇に回避した。
「あわわわわっ!」
フラフラ蛇行しながら一生懸命ブレーキを握って止めようとしているが、壊れているのか止まる様子はない。結局藤崎家の南側にある畑の中へ突っ込んでいった。盛大に転倒し三回転くらいして畑の畝に転がった。
「だ、大丈夫ですかっ!」
涼子は慌てて駆けつけた。青年はゆっくりと体を起こし、ズレた眼鏡を直した。その野暮ったい黒縁眼鏡は、どうも歪んでいるように見えた。転んだ時に曲がってしまったのだろう。
側にやってきた涼子に気がついて、照れ笑いをしながら言った。
「いやぁ……まいった、まいった。えっと……お嬢ちゃん、怪我はないかい?」
「え? い、いえ……私はどうもないですけど、私より……」
「あははは! いやはや、心配してくれてありがとう。僕は大丈夫だよ」
そう言って立ち上がる青年。しかしバランスを崩して、ふたたび転びそうになる。涼子は慌てて支えようとしたが、なんとか立て直したようだ。
「おっとっと、危ない、危ない。それにしても、やっぱりボロはいかんね。ブレーキが壊れてる」
青年は、金属棒のブレーキレバーを何度も握ってはブレーキを作動させてみているが、どうも手応えがない。ブレーキパッドがリムを押さえられていないようだ。どこかが緩むかしてレバーの作動が伝わっていないようである。
「この自転車、大家のおっちゃんにもらったんだけど……だから気前よくくれたわけだなぁ。やれやれ……」
苦笑いする青年を唖然とした顔で見ている涼子。
「あはは、驚かせてごめんね。それじゃ——」
青年は、ブレーキの効かない自転車には乗らずに、押して来た道を引き返して行った。見るとズボンのお尻が盛大に破けているのに気がついた。
涼子はそれを言い出せず、唖然としたまま黙って見送った。
その頃、涼子と青年のやりとりを離れたところから見ていた少年がいる。及川悟と岡崎謙一郎である。涼子たちが下校しているのを後からついて行き、そのまま涼子の家の近くで見張っていたのだ。
「悟くん……さっきの人、まさか……」
「うん。多分、小島昭三さんだと思う」
悟はそう直感した。涼子は気付いていない様子だったが、まあいきなりだとそこまで気が回らないのだろう。ふたりとも、それよりも大きな問題が気になった。それをまず岡崎が口にした。
「やっぱり? ……あのさ、なんかおかしくない?」
「そうだね。斎藤先生が来るタイミングで登場するって隆之は言っていた」
そうだった。出てくるタイミングが早い。世界再生会議による妨害工作の影響かもしれず、ふたりとも焦った。しかし再生会議の動き事態は、未だ表に見えてこない。表面上、何もやっていないように感じる世界再生会議だが、余程巧妙に姿を隠して行動しているのかだろうか。新しいリーダーはそれだけ統率力が優れているのだろうか。
「なんていうか、やっぱりちゃんと予定通りにはいかないね。再生会議もなんだか動きがないし」
「まあ、先生とばったり会うのは、これからかもしれないよ。それにしても、涼子ちゃんはあれが小島さんだとは気がついていない風だったね」
「そうだね、あのドタバタで呆気にとられていたのかな——」
ふたりで喋っている時、突然後ろから声をかけられた。
「悟くんに謙ちゃんじゃないの。こんなところで何をしているの?」
驚いて振り向いたふたりが見たのは、斎藤先生だった。涼子の家の近くまでやってきたのだ。
「あっ、ええと、あの——せ、先生。こんにちは!」
「こんにちは。あんたたちねぇ、まだ制服じゃないの。まだ家に帰っていないの? 遊ぶならまず家に帰ってちゃんと着替えてから遊びに出てきなさい」
「は、はい……」
「涼子ちゃんの家はこの先よね。先生はこれから涼子ちゃんの家庭訪問があるから。それじゃ、早く帰るのよ」
「はい」
斎藤は行ってしまった。
悟と岡崎はそれを見送った後、自分たちもこっそり涼子の家に近づいた。
家の前には涼子がいて、斎藤を出迎えているようだった。しばらく道端で話した後、涼子は斎藤を伴って家の方へ入って行った。
小島昭三は現れずに。そのまま入って行ってしまった。やはり違うことになっている。うまく予定通りにいかないのなんて、これまでもあったが、今回もだったか。
悟は岡崎と顔を見合わせ、どうしたものかと考えた。
「悟くん、どうしよう。このこと朝倉くんには言っておいた方がいいよね?」
「そうだね。僕が見張るから岡崎くんは学校へ」
「わかった」
岡崎はすぐに駆け出した。
「先生!」
涼子は向こうから歩いてくる斎藤を呼んだ。
「涼子ちゃん!」
斎藤はそれに気がついて、少し早足になって近づいてきた。
「ごめんね、ちょっと遅くなったわね。ご両親は待っておられるかしら」
「うん、お父さんはお仕事だけど、お母さんがいます」
「そう、わかったわ。それじゃ行きましょう」
「は、はい……」
涼子は困った。小島昭三が現れない。先ほどは気が付かなかったが、あの自転車の青年が小島だろうと、今では考えていた。確かにあんな顔をしていたと記憶にある。しかしあの青年は引き返してこない。もしかして不味い対応をしてしまっただろうか、と少し後悔していた。
チラチラと周辺を見回してみるが、やはりあの青年は姿を見せない。
「どうしたの?」
「あ、いえ……いや、その……」
しどろもどろの涼子。このまま外で引き留めたとしても、小島はやってくるかわからない。
「さあ、涼子ちゃん。お母さんが待っているわ」
斎藤はそう言って、構わず玄関の前に行ってしまった。
「せ、先生——」
どうしようもなく、涼子も家に入るしかなかった。




