第八話:新婚生活と静寂の要塞
北方の旧城塞、改め「オーギュスト・グリム離宮」での新婚生活は、カエサルの予想通り「刺激的」、そしてアメリアの予想通り「理想の引きこもり」から始まった。
城塞の構造は、完全にアメリアの願望に合わせて改築されていた。特にアメリアの命によって改築された中央書庫は、巨大な石造りの構造体で、外部からの光は遮断され、温度と湿度は常に一定に保たれている。そこには、彼女が集めた大量の古書や稀覯本が、静かに納められていた。
結婚式から三日後、アメリアは、その聖域—彼女にとっての真の結婚相手—に籠もっていた。
「ああ、静かだわ。この分厚い石壁と、城塞の立地の悪さが、全ての騒音と干渉を遮断してくれる」
アメリアは、瓶底眼鏡越しに、古文書の緻密な写本を読んでいた。彼女の足元には、数日分の食料と水が置かれている。彼女の辞書に「新婚旅行」や「夫婦生活」といった言葉はなかった。あるのは「集中」と「読書」だけだ。
一方、城塞の最上階にある豪華な公爵の自室では、カエサルが退屈を持て余していた。
「ユリウス。アメリアは、まだ書庫にいるのか?」
カエサルは鏡の前でポーズを取りながら、執務のためだけにこの地を訪れたユリウスに尋ねた。ユリウスは、厚い毛皮のコートを纏い、凍える北の気候と、公爵の自己中心的な質問に耐えていた。
「はい、カエサル様。今朝、書庫の入り口に給仕が朝食を置きましたが、すでに中へ引き込まれたようです。アメリア様は公爵妃という立場を最大限に利用し、理想の引きこもり生活を実現中でございます」ユリウスは、皮肉を込めた報告を淡々と述べた。
カエサルは、その報告に満足げに頷いた。
「素晴らしい。彼女は私に最高のスリルを提供している。君主である夫を無視し、自身の趣味に没頭する。この孤高の反逆こそが、私の愛を燃え上がらせるのだ」
「公爵様がご満足であれば結構です。ただし、王都からの至急の公務を二点ほどご確認いただきたいのですが」ユリウスは書類の束を差し出した。
「うるさい。私は今、アメリアの精神的防壁をどう破るか、戦略を練っているところだ」
カエサルは、部屋の隅にある特注の黄金の昇降機を見つめた。それは、彼がデザインし、アメリアの中央書庫の最上階に直結している、彼専用の「愛の侵入路」だった。
「ユリウス。君は書庫の昇降機の最終点検を行ったか? 私の愛の突入に、万が一の故障などあってはならない」
ユリウスは深くため息をついた。「五分前に点検を完了いたしました。構造、安全、騒音、全て異常ありません。カエサル様の愛のテロは、いつでも実行可能です」
カエサルはユリウスの皮肉を聞き流し、目を輝かせた。
「よかろう。では、実行だ。結婚初夜の逃亡は許したが、三日間の逃亡は寵愛の限界を超えている。今こそ、夫としての義務を果たす時だ!」
ユエウスは、カエサルの行動を止めようとはしなかった。どうせ止めても無駄なのだ。彼はただ、カエサルが昇降機に乗り込むのを見届けた後、疲れた声で呟いた。
「ああ……昇降機を造る費用で、私が引退して一生分の読書ができるはずだったのに。勝手にしてください。私は、王都の公務に戻ります」
ユリウスはそう言い残し、急ぎ足で城塞を後にした。彼は、カエサルの暴走によって生じた公爵家の財政的な穴を埋めるという、地道で過酷な仕事が待っていたのだ。
中央書庫。
アメリアは、古文書のページをめくり、活字の美しさに心を奪われていた。静寂は、彼女にとって最高の友だ。
(完璧だわ。公爵様も、三日もすれば私の趣味に飽きて、私への関心を失うはず。あとは、この昇降機の存在を忘れてくれることを祈るばかりよ)
その時、書庫の堅牢な石壁に、微かな機械の駆動音が響いた。
キィィィィィン……
音は徐々に大きくなり、彼女の読書の集中力を妨げた。アメリアが音のする方を見上げると、書庫の最上階近くの壁が開き、黄金の装飾が施された昇降機が、静かに滑り降りてくるのが見えた。
昇降機の中央には、太陽のような輝きを放つ男が立っている。カエサル・オーギュスト・ド・ヴェルサイユ公爵だ。
彼は、アメリアの驚きの表情を確認すると、至高の喜びを浮かべた。
「ハロー、アメリア。君の最高の逃亡要塞を破ってやったぞ」
カエサルは、書庫の堅固な扉ではなく、自ら造らせた昇降機という名の裏口から、彼女の聖域へと侵入したのだ。
「公爵様!」アメリアは、驚きと憤慨で、立ち上がった。「不干渉の約束を破るおつもりですか!」
カエサルは、昇降機から一歩踏み出し、床に降り立った。彼の豪華な衣装と香りが、書庫の静謐で清浄な空気を一瞬にしてかき乱す。
「干渉ではない。愛だ。君の最大の難関(要塞)を突破する、私流の愛情表現だ」
カエサルは、アメリアの前に歩み寄り、彼女の瓶底眼鏡の縁に指をかけた。
「君の顔色、興奮で赤らんでいるぞ。やはり、君は私の刺激なしでは生きられない。さあ、私という美の極致を前にして、退屈など忘れてしまえ」
(興奮ではない、憤慨よ! この昇降機の設置費用を、あと三冊の稀覯本に換算してやる……!)
アメリアの心の中で、公爵への怒りは即座に資金換算された。彼女は、静かに古文書を抱きしめた。
「公爵様。私の読書の邪魔をしないでいただけますか。それとも、貴方はこの書庫の、最も見栄えの良い場所に飾られる像になりたいのですか?」
カエサルのナルシストの心は、アメリアの言葉にさらに火をつけられた。
「像? 違う。私は、君の隣で、君の静寂を破る存在となるのだ。そして、今日から、この城塞での生活は、私の美貌と、君の逃亡という、スリリングなロマンスで彩られることになる!」
カエサルはそう宣言し、アメリアの腕を掴み、問答無用で昇降機へと連れ戻そうとした。こうして、アメリアの理想の引きこもり生活は、ナルシスト公爵による究極の干渉という名の新婚テロによって、幕を開けたのだった。




