第十六話:研究がもたらす予期せぬ影響
北方の旧城塞に戻って数日。アメリアは、カエサルのナルシシズムを資金源として利用するため、彼の行動パターンを解析する実験を続けていた。
カエサルのルーティンである昇降機テロが、その日の昼に実行された。しかし、今日のカエサルは様子が違った。彼はいつもの黄金の昇降機ではなく、中央書庫の正式な扉から、ノックをして入ってきたのだ。
「公爵様! 扉から入るなんて、どうされたのですか?」アメリアは驚き、手に持っていた修復用ブラシを落としそうになった。昇降機からの突入こそが、彼の「愛の挑戦」の象徴であり、最も彼女の静寂を破る行為だったはずだ。
カエサルは、書庫の入り口に優雅に立ち、微笑んだ。
「アメリア。君は先日、私の昇降機が『古文書にとって最悪の環境汚染』だと指摘したな。君の知的な研究の邪魔をすることは、私の美学に反する。だから、今日は扉を選んだ。どうだ、君の静寂への配慮こそ、私からの最高の愛の贈り物だろう?」
カエサルは満足げに頷くと、アメリアが常に座る作業台の椅子ではなく、その隣に、静かにもう一つ椅子を引き寄せた。そして、アメリアの作業に邪魔にならないよう、あえて静かに、そこに腰掛けた。
「君のその意欲こそが、私の生きる糧だ。さあ、私の存在を気にせず、思う存分、知の世界に逃避するがいい」
彼はそう言い放ったが、その瞳は、書物ではなく、アメリアの横顔に注がれていた。カエサルの「静かな存在」は、これまでの「騒がしいテロ」よりも、遥かにアメリアの心をざわつかせた。
数分後、カエサルは、アメリアの肩越しに、彼女の作業を覗き込んだ。「君の修復作業は、まるで時間を縫い合わせているようだ。美しい」
アメリアは、手が止まった。彼女は、カエサルが心から自分の作業を「美しい」と評したことに、微かな喜びを感じた。それは、彼女の内面的な世界を、彼が初めて肯定した瞬間だったからだ。
アメリアは、そっと修復中の古文書をカエサルに見せた。「ありがとうございます。この作業は、歴史の断片を、再び完全な形に戻す試みです。公爵様の美の維持にも通じるものがあるかもしれません」
カエサルは、その古文書を覗き込み、眉をひそめた。「歴史の断片……。フン。私という永遠の美の前で、朽ちゆく歴史など、取るに足らない」
しかし、彼の指は、アメリアの修復された紙の継ぎ目を、優しくなぞった。
「だが……完全な形に戻す、か。君は、失われたものに、再び価値を与えている。それは、私が私自身の価値を永遠に維持しようとすることと、確かに似ているかもしれない」
カエサルはそう言うと、アメリアの顔を見上げた。彼の瞳は、熱心に作業に没頭するアメリアの情熱を捉えていた。
その瞬間、カエサルは、アメリアが彼に注ぐ「研究」の熱量が、他の女性が彼に注ぐ「美貌への憧れ」とは全く違う種類の、純粋で、揺るぎない熱であることを理解した。彼女の熱は、彼という存在の核心に向けられていた。
カエサルの胸に、ドキンという強い鼓動が響いた。それは、鏡を見ても、他の女性に愛を囁かれても感じることのない、心臓の根源からの、熱い動揺だった。
(私は、この女に飽きさせない挑戦を求めていた。だが、彼女は、飽きさせるどころか……私に、私自身が予測不能な感情を抱かせている。これは、私の美の哲学にとって、未知の領域だ)
カエサルは、アメリアの「知的な熱意」に、初めて恋愛感情という名の、真の興味を抱いた。彼は、彼女を支配したいのではなく、彼女の熱意の対象になりたい、と感じていた。
彼は、アメリアの手首をそっと掴んだ。
「アメリア。君は、修復作業よりも、私という書物の未完の章を、先に読み解くべきではないか?」
アメリアは、カエサルの手の熱と、彼の瞳に宿る真剣な、しかし困惑した熱を感じ、再び頬を赤らめた。
「公爵様。研究は、計画通りに進めるべきです。そして、貴方の未完の章を読むには、新たな知見と、静寂が必要です」
彼女はそう答え、カエサルの手を静かに振りほどいた。しかし、その手首には、カエサルの熱が、しばらく残っていたのだった。




