第十四話:防壁の亀裂と「愛」の新たな定義
王都での騒動を終え、カエサル公爵とアメリア妃が北方の旧城塞に戻ると、城塞の静寂はアメリアの心に深い安堵をもたらした。しかし、彼女の心は、ロザリンド嬢の醜聞と、それに伴うカエサルの**「守る」という行為**によって、以前のように完全に閉ざされてはいなかった。
その日の夕刻、アメリアはいつものように中央書庫にいた。カエサルは、書庫の横に特設させた「公爵専用執務室」で、王都で溜まった公務を珍しく処理していた。ユリウスの疲労困憊の顔を見て、彼もわずかに良心の呵責を感じたらしい。
キィィィィィン……
駆動音とともに、黄金の昇降機が滑り降りてきた。しかし、中には誰もいない。アメリアは怪訝に思ったが、昇降機の床に、小さな布包みが一つ置かれているのを見つけた。
アメリアがそれを手に取ると、すぐに昇降機は音もなく上昇していった。
包みを開くと、中には、彼女が探していた特定の中世の薬草図鑑の稀覯本と、一枚の短いメモが入っていた。メモはカエサルの筆跡だった。
「王都の図書館では見つけられなかっただろう? 貴様の逃避を完璧にするためには、知識が不可欠だ。この本で、私の美しさに匹敵する知性の壁を築くがいい。— C.A.V」
アメリアは、その本を見つめた。彼女が王都で見つけられなかった、本当に必要な一冊だった。彼は、自分の趣味には全く関心がないふりをしながら、彼女の探求を水面下で支援していたのだ。
彼女の胸に、またドキンという小さな動揺が走った。それは、彼の資金や権力に対するものではなく、彼の行動に対するものだった。彼は、単なる自己愛の追求だけでなく、彼女の「引きこもり」という夢を尊重し、それを支えることを彼の新たな美学として組み込み始めている。
アメリアは、本を抱きしめ、昇降機が戻ってくるのを待った。
昇降機が再び降りてきて、扉が開くと、カエサルが立っていた。彼は、作業服のような、しかし仕立ての美しいシンプルな白いシャツを着ており、いつもの過剰な装飾は控えられていた。
「どうした、アメリア? 私の美の賜物に、言葉を失ったか」カエサルは、いつものように傲慢に言った。
「公爵様」アメリアは、稀覯本をしっかりと抱いたまま、昇降機に一歩踏み込んだ。「ありがとうございます。この本は、本当に必要でした。ですが、どうして貴方が、私の研究に必要なものだと知っていたのですか?」
カエサルは、自慢げに微笑んだ。「フン。君が図書館で探している間、ユリウスが君の検索履歴を私に報告させた。君の知的な逃亡ルートを把握しておくのは、挑戦者としての義務だろう?」
(ユリウス、ごめんなさい。貴方は私の共犯者ではなく、彼の優秀な手下だったのね……)アメリアは心の中でユリウスに謝罪した。
アメリアは、カエサルの「監視」への憤りを押し殺し、彼のシンプルな服装を見て、素直な疑問を口にした。「公爵様。今日は、鏡磨きをされないのですか? そのシャツは、いつもの豪華な衣装よりも、貴方の美しさが自然に際立っています」
カエサルの表情が一瞬、固まった。
「な……。私の美しさが自然に際立っているだと?」
彼は、自分の美しさを努力と装飾で磨き上げていることに誇りを持っている。**「自然」**という言葉は、彼にとって、意図的な美学を否定されたように聞こえたのだろう。
「そうです。貴方は、彫刻ではなく、人間です。その人間的な美しさに、私は今、少しだけ驚きました」アメリアは、珍しく本音を、しかし学術的な分析のように口にした。
カエサルは、鏡ではない場所で、自分の美しさではなく、自分の人間性について、これほど率直な意見を聞いたことがなかった。彼はアメリアをじっと見つめ、その瞳の奥を読み取ろうとした。
「……君は、私の美しさではなく、私の人間性に興味を持ったのか?」カエサルは、戸惑いと、微かな高揚感で声が震えた。
「はい。貴方は、いつもナルシストの鎧を完璧に着こなしています。ですが、その鎧を脱いで、私の孤独を分かち合おうとする時、貴方は私にとって新たな研究対象となります」
アメリアは、淡々と答えたが、その表情には、彼への関心という、これまでなかった感情が乗っていた。
カエサルは、アメリアのその好奇の視線を浴びて、全身に熱を感じた。それは、鏡の中の自分を見た時に感じる、冷たい自己満足とは全く違うものだった。
彼は、初めて、自分自身ではない誰かから、自分の存在の核心を見つめられていると感じた。
カエサルは、不意にアメリアの手を取り、彼女が抱く稀覯本の上からそっと握りしめた。
「アメリア。君は、私に飽きさせない才能があるな。私は、君のその知的な好奇心を、私の美しさに対する新たな『愛』の形式だと解釈しよう」
そして、カエサルはアメリアの瞳を見つめた。彼のナルシストの仮面は、今、微かに、彼女への期待という名の、本物の愛情によって歪められていた。
「君が私を研究し、分析するなら、私は君に最高の標本となろう。私が君に飽きないように、君も私という書物を、一生かけて読み解くと誓え」
アメリアは、熱を帯びた彼の手に、微かにドキッとした。それは、彼が自分の趣味を最高の愛の誓いとして差し出している、という事実に感動したからだ。
「承知いたしました、公爵様。貴方が私に資金と静寂を提供する限り、私は貴方という稀覯本を、飽きずに読み解きましょう」
二人の間で交わされたのは、研究対象と研究者、標本と分析者という、奇妙だが、互いの孤独を満たすための、愛の再定義だった。




