第七章:3 呪鬼(じゅき)と礼神(らいじん)
――助けて、先生。……麟華を助けて。
心の底から乞うような声。この世にただ一人、かけがえのない翼扶。その叫びがまるで稲妻のような衝撃となって身体を貫いた。
影脈が開く。
(むごい、ことを……)
目の前の状況を理解した瞬間、遥は焼け付くような憎悪に支配された。路面の上に、何かを引き摺ったような赤黒い血の痕がこびりついている。力尽きたように動かない体は傷つけられていて、目を逸らしたくなるほど痛ましい。
「主上――」
麟華の呟きを聞き取れたのかどうか。何かを考えるよりも先に、遥の足先が地を蹴っていた。手にした漆黒の刀剣が流れるように軌跡を描く。振り下ろした剣先が相手を捕らえる前に、標的がひらりと身を交わした。
「いけません、主上」
守護の振り絞るような悲鳴で、遥ははっと動きを止めた。力のままに空を斬ると、辺りを両断してしまう。剣を振りぬく寸前で、彼は力を抜いた。状況を分析する冷静さが蘇ると、惨状を目の当たりにして高ぶっていた気持ちが落ち着く。
麟華の髪を掴んでいた男は、手にした刀剣を振り下ろすことを忘れ、即座にその場から飛びのく。ふわりと場違いな美しさで、白い裳衣が閃いた。麟華が縫い止められたように、不自然に立ち尽くしてうな垂れている。
「申し訳ありません。私がついていながら」
「いや、間に合って良かった」
遥は首を振り、男と対峙する。
「闇呪ですね。もう少しで目的を果せたところを……」
突然現れた黒麒麟の主に戸惑いながらも、男は嗤っている。光の反射すら拒むような漆黒の瞳。遥はちらりと背後に倒れている朱里を見返った。容赦のない傷つけ方が、男にとって朱里が単なる異界の娘でしかないこと示している。
どうやら男の狙いは麟華にあったようだ。一瞬で状況を察すると、遥は地面に突きたてられた短剣を蹴り上げた。影が這うように色が流れ、折れた刃先が煌めいて辺りに散る。不可解な光景を見た気がしたが、遥は隙を与えず男に向かって踏み込む。囚われていた守護に、声だけで命じた。
「麟華、すぐに朱里の手当てを。そして、この場を結界で護れ」
守護が命じられたまま、朱里に駆け寄る気配がした。同時に結界が完了するのが判る。変わらない光景であるのに、どこかへ切り離されたような感覚。天界の気配に似ているのかもしれない。遥は容赦なく刀剣を振りぬく。男の白く長い袖がはらりと切れた。
追い詰めているはずなのに、思うように力が発揮されない。男は薄く微笑んだまま、ただ身を交わす。遥の戸惑いを嘲笑っているようにも映る。
「今はまだ、あなたの相手をする時ではありません」
「誰であろうと、この地で禁を犯した罰は受けてもらう」
男が不気味なほどに口元を歪めて笑った。ようやくその手で透けるように美しい白刃の剣を抜く。
「では、その罰をこの透過剣で受け止めましょう。それで今は許していただきます」
「私の剣を受け止めると?」
問い質すと、背後で麟華の声が教える。
「主上、彼は神器――麒麟の目を手にしています」
(何――)
明かされた事実が、すぐには呑み込めない。呑み込めないが、守護が追い詰められていた状況が全てを物語っている。呪鬼を封じる神器。自身の制する絶大な力を封じるために、最大の禁忌が破られたのだ。さすがの遥も動揺を隠せない。
男――皓露の皇子、透国の第二王子であり、同時に皇位継承者。彼は勝ち誇ったかのように、ゆったりと微笑んだ。
「力を封じられては、さすがのあなたにも成す術がないようですね。あなたが向かってこないのであれば、私から参りましょう」
遥は手にしていた刀剣の柄を握りなおす。風を巻き込んで振り下ろされる白い軌跡が、はっきりと目に映った。太刀筋を見極められれば、剣を止めるのは難しくない。遥は迷いなく手にした刀剣で、皇子の一撃を受け止めた。
音のない衝撃。直後、交わった刃から爆発的な圧力が伝わってくる。結界がなければ、辺りが吹き飛んでいたかもしれない。
交わった剣の向こう側で、皓露の皇子が「おや?」と言いだけに顔を歪ませた。
「これは、……」
遥が浅く笑ってみせる。本気ではないとしても、皇位継承者の剣がこれほどに軽い。天界の衰退は天帝の加護が費えたことだけが原因ではないだろうと、改めて実感してしまう。いや、あるいは永く恵まれた日々が続いていたということなのかもしれない。
「与えられた礼神に縋るだけの錆びついた剣で、私の相手が出来るとでも思ったのか」
遥は囁くように語りかける。受け止めていた剣を弾くように押し返し、改めて剣を構えた。呪鬼に頼ることのない、この身に刻んだ力。まだ世の理も知らぬ幼い頃、ひたすら鬼に怯えて、幾千幾万のそれらを切り捨てて来た。まるで地獄を彷徨するように、凄惨に過ぎた日々。どれほど傷つけられようとも、彼には魂魄を断つことが許されない。力尽きて眠り、痛みに目覚めては、繰り返される無為な戦い。
立ち上がる鬼に対して、芽生える敵意と恐怖と、悪意。限りない鬼の襲撃が、自身の心を映していたのだと知るまでに、どれほどの時間を費やしただろう。
全ては自身を否定する弱さ、あるいは悪意を映す鏡に過ぎないのだと。
今となってはただ愚かで、懐かしい日々だった。けれど、鍛え上げられた武術や体力は、今もこの身に刻まれているのだ。それは他の天籍にある者と変わらず、礼神という目に見えぬ力となって遥の中に保たれている。
真実の名を持つ者に与えられた力。それは、礼を以って神を制す。
呪鬼を扱う遥にとっては、今では使うこともなく、ただ身の内に眠らされているだけの力だったが、この局面においては有効だった。過酷な日々も決して無駄にはならなかったのだ。厳しい鍛錬の場であったのだと、記憶を塗り替えることが出来る気がした。
「これは驚きました。まさか闇呪の主が、礼を以って神を制すとは……」
皓露の皇子が表情から笑みを消す。美しい白刃の剣を握り直した。
「ここであなたを足止めできるのなら、今後の成り行きが楽しめるかもしれません」
深淵の眼差しで、皇子は押し殺したように呟く。長い銀髪がゆるりとなびき、豊かな衣装の袖が振られる。本気で向かって来るという、張り詰めた気迫が漲るのを感じた。
遥が目まぐるしく、この後の展開を模索する。これまでの経験から、呪鬼と礼神の衝突は力を打ち消しあい、甚大な戦禍を生み出さないことは知っている。けれど、一国の継承者と同じ礼神を交わし、何事もなく収まるとは思えなかった。麟華に託した結界が、どこまで封じ切れるのかも定かではない。麒麟の目が呪鬼を封じてしまうのならば、結界が破られる可能性もあるのだ。
「この地に爪痕を残すつもりか」
「本意ではありませんが、この機会を逃す手はありません。皇位を継ぐ私の力は、天意によって与えられた力。鍛錬によって習得できる境地のものではありません。呪鬼を持たないあなたに、どれほどの効果を齎すのか興味があります」
万が一、傷ついた朱里に被害が及ぶようなことがあってはならない。力の衝突を避け、不死の肉体で渾身の一撃を浴びたほうが、周りを巻き込む圧力は和らぐのかもしれない。手にした悠闇剣を引くべきなのかと、張り詰めた間合いの中で遥は逡巡する。踏み込むことができない。




