陸章:二 行方1
「雪、僕はすぐに兄上の宮へ行くよ」
すぐに席を立とうとすると、雪が困ったように苦笑いをした。
「実は碧宇様がおいでになっています」
「よぅ、可愛い弟」
雪の報告が終わらないうちに、何の遠慮もない様子でやってくる人影があった。
「おまえはいつ見ても可愛い。和む」
兄の碧宇は子犬のように翡翠を抱きしめて、力に任せてぐりぐりと頬ずりをする。翡翠はぎゃーっと奇声を発してじたばたと暴れた。
「碧宇様、翡翠様が可愛らしいのは分かりますが、いい加減になさって下さい」
雪の冷ややかな声で、碧宇が名残惜しそうな顔をしながら翡翠を解放する。
「ったく、兄上は。いつまでその習慣をひきずるつもりだよ。気持ち悪い」
「気持ち悪いとは心外な。この兄の愛情がわからんのか」
「そんな愛情はいらない」
碧宇はがっくりと肩を落とした。
「冷たい。お兄様を癒してやろうという優しさがあってもいいだろうに。あー、何はともあれ、やっと堅苦しい行事が終わった」
ぶはーと息を吐き出して、碧宇は雅な裳衣を物ともせず、どかっと間近の榻牀に腰かけた。座面に足を放り出して、勝手に一人で寛いでいる。
人の宮を訪れて我が物顔している兄の様子は、碧宇の外面を知っている翡翠にとっては可笑しくてたまらない。反面、この王子が間違いなく自分の兄であると、微笑ましくも感じる。
既に兄の正体を知る雪は、驚くこともなく茶器の用意を始めていた。
「とにかくおかえり、兄上。で、どうだった?」
幼い頃からそうであるように、翡翠は気安く声をかける。
外面という仮面を外している碧宇に改まった敬語で語りかけると、容赦なく鉄拳が飛んでくるのだ。碧の王子として気品を漂わせ、品行方正に振る舞う碧宇からは、全てが考えられない行動である。
「俺の真名は、おっさんに捧げてきたぜ」
「ええっ?」
「碧宇様、黄帝に対しておっさんは失礼です」
「おっと、相変わらず玉花の姫君は手厳しいな。その見た目との違いが、翡翠に劣らず可愛いよ」
「お褒め頂き、光栄です」
驚く翡翠を置き去りにして、二人はいつものように馴れ合っている。
「あに、兄上、捧げたって……、真名を捧げたって」
「おぅ、黄帝に忠誠の証を立てた」
「他の国は?」
「どこも同じだよ」
勅命が下ってから、どの国も黄帝への不信感を募らせていた筈である。父王である緑の院も兄の碧宇も、黄帝の思惑を質しに赴いたのではなかったのか。
翡翠は一体金域で何があったのかと、言葉を失ってしまう。唖然とする翡翠の気持ちを察したのか、碧宇はにやりと得意げに笑った。
「あれほど間近で黄帝のご尊顔を拝したのは初めてだったが、噂に聞くとおり美しい方だったよ。金色の長い髪と、金色に輝く瞳。もうそれだけで、俺は度肝を抜かれたな」
「でも、容姿がいくら綺麗だからって……」
「まぁ、待てよ。翡翠、人の話は最後まで聞け」
思い切り顔を顰めながらも、翡翠は頷く。傍らで茶を淹れていた雪は、身振りだけで二人に勧めると、そっと翡翠の隣に腰掛けた。
「黄帝はようやく沈黙を破り、俺達に真実を教えた。黄帝には心を通わせて契りを交わした相手がいる。その女性に真名を捧げたそうだ」
「じゃあ、既に相称の翼は存在しているってこと」
「もちろん、そういうことになるな。しかし、今の世を顧みて判るとおり、天帝の御世は始まっていない」
「どうして?」
「黄后となるはずの相称の翼が、金域にいないからだ」
翡翠は懸命に筋道を辿る。透国で聞いた清香の体験は何の齟齬もなく繋がる。
この世から姿を消すことを望んだ金色の少女。傷つき、絶望に打ちひしがれていた姿。
けれど、黄帝と心を通わせながら、なぜそれほどの絶望に苛まれていたのか。いったい、彼女の身に何が起きたのだろう。
黙りこんでしまった翡翠の変わりに、雪が碧宇の話を促した。
「どうして相称の翼は、黄帝のお傍にいらっしゃらないのですか」
「相称の翼が金域から姿を消した理由は、黄帝にも判らないらしい。ただ――」
「ただ?」
翡翠は食い入るように、吸い込まれそうな兄の緑の双眸を見つめた。
「……奪われたのかもしれない、と」
「誰に?」
問いたださなくても、容易に想像がついた。もしかすると、その名を否定してほしかったのかもしれない。恐れながらも、翡翠はいつのまにか白虹の皇子のように、これまで語られてきた非道であるだけの噂を疑い始めていたのかもしれなかった。
「鬼門の番人、闇呪の仕業ではないかと」
翡翠は鉛を飲み込んだように胸が詰まる。
「それは、彼がこの世を滅ぼす凶兆だから? ただ、それだけが理由で?」
思わず抗議めいた口調になってしまう。碧宇は翡翠の剣幕に目を丸くしながら、くつくつと浅く笑った。
「たしかに、それも理由の一つかもしれんな」
碧宇は面白そうに翡翠の顔を眺めた。どこか下世話にも見える微笑みで、にやりと笑う。
「しかしだ。残念ながら、もっと判りやすい理由が潜んでいる」
「判りやすい理由って?」
「おまえも世の禍となる闇呪の宿命を、聞きかじってはいるだろう。今の黄帝がこの世に生まれた同じ夜、闇呪も誕生した。知っていたか」
「――もちろん」
「じゃあな、それを聞いて何か思うことはないか」
謎かけのように問われても、翡翠には心当たりがない。
闇呪の誕生は、その宿命と同じように語り継がれている。今となっては翡翠にはどこまでが真実であるのか疑わしい。
禍として生まれた赤子は、生まれ落ちた瞬間、無作為に呪を以って鬼を放ったと言われている。誕生の瞬間に立ち会った者は魂魄を奪われ、その累々と横たわる屍の中で、赤子の産声だけが無邪気に響いていたというのだ。
うろ覚えであるが、翡翠はそんな話を聞いた事があった。
碧宇にそれを語ると、彼は「うんうん」と頷いた。
「あー、それ聞いたことがあるな。既に懐かしい昔話だな」
「ということは、これはただの作り話ってこと?」
「いや、それはそれで正しい。だがな、故意に伏せられた事実があったということだ。黄帝が生まれたその同じ夜に生まれる。黄帝と闇呪は、共に滄国に生まれた太子で、双生児だ」
「双子っ?」
思わず声をあげてしまうと、碧宇は満足そうに頷いた。
たしかに、その事実が伏せられていたのも無理はない。いつの世も黄帝の出自は明らかにされないのが掟である。もちろん興味をもって調べれば容易く判明することではあるが、黄帝の威光を掲げて一国が力を誇示することは禁じられているのだ。
それは天意の定めた理であり、破れば麒麟の裁きが下った。史実によると、その制裁によって滅びた王族がある。王の家系が絶えると、その地の守護が新たな王を迎えて、新しい国が築かれる仕組みになっているのだ。
この世には人の手が届かぬ天意が在り、目に見えぬ掟で縛られている。
あるいは、護られているのだろうか。
黄帝は秘すべき出自を明らかにしてまで、闇呪との関係を公にした。翡翠にはそれだけで逼迫した状況であることが想像できる。
「同じ日に、同じ腹から生まれながら、二者の運命は明暗を分けた。一人はこの世の頂に。一人はこの世の禍に。……先守の占いのとおり、闇呪はこの世を滅ぼす運命を歩み始めたのかもしれないぞ」
「だけど。まだ相称の翼が闇呪に奪われたとは限らない」
碧宇は「ここからがドロドロした話なんだよな」と呑気に茶をすする。
「さて、ここで問題だ。黄帝が心を通わせた相称の翼が誰なのかということだ」
「え?」
翡翠には思い当たる女性は浮かんでこない。思わず隣の雪と顔を見合わせてしまう。碧宇は空になった茶碗を卓上に置いて、再びふぅと溜息をついた。
「俺は聞いて呆れたね。いくら黄帝でも、もっと他に誰かいなかったのかと」
皆目、見当がつかない翡翠とは違い、雪は何か閃いたらしい。
「まさか」
難しそうに顔を歪めた雪の様子を見て、碧宇は景気よく指を鳴らした。
「そう、そのまさかなんだよ」
「もしかして、闇呪の主と最後に縁を結んだ姫君ですか。考えてみると、これまで犠牲になった方々のように、その姫君がお亡くなりになったという噂はありません」
「言われてみれば、そうだね」
翡翠も最後に縁を結んだ姫君の訃報を耳にしたことはない。
碧宇は「大正解」と大袈裟な位に深く頷いた。
「緋国の女王、赤の宮はさすがに動揺していたな。まさか厄介払いをした姫君が黄后になろうとは、予想もしていなかっただろう。幸いどんな確執があろうとも、天帝の御世が公平であることは揺るがないけどな」
「兄上、厄介払いをした姫君って?」
「相称の翼は、緋国の六番目の姫宮だ。六の君と言うらしい」
「六の君って、愛称は?」
「だから、緋国ではそれが愛称だったんだよ」
翡翠にはその姫宮の待遇がそれだけで知れた。緋国において六の君というのは、碧国で翡翠のことを第二王子と呼ぶことと同義である。事実上、その姫宮には存在を愛でる意味合いでの愛称が与えられていないということだ。




