第六章:四 紅於(かえで)の悲嘆
心を鎮めるために居室で筆をとっても、ぱたりと落ちた涙が、文字をじわりと滲ませる。紅於には心の整理がつけられなかった。闇呪捜索のために異界へと旅立った紅蓮が、輪廻したこと。
輪廻の儀式は緋国をあげて執り行われた。あまりに盛大であったからだろうか。紅於にはこの目で霧散してゆく美しい紅蓮を見送った記憶がある。はっきりと脳裏に刻み込まれた情景があるのに、紅蓮の不在を認める気にはなれなかった。
この緋国のどこにも、天地界のどこにも、もう紅蓮はいない。信じたくはなかった。
筆を持つ指先が視界に入ると、紅於は耐え難い想いに苛まれる。
紅蓮の炎を映しとったような、美しい癖をもった豊かな緋色の髪。風に煽られた長い御髪の一房が、自身の持つ緋扇に、指先に絡み、思わず取り落とした記憶。
紅於の想いは、そこから始まった。気高く美しい二の宮。顔を拝する機会もない宮家の姫との政略的な縁。当時、紅於は無垢な少年のように、純愛に憧れていた。翼扶と比翼に強い憧憬があり、形式的に与えられた二の宮との縁には肩を落とした。
せめて二の宮がどんな姫君であるか、情愛を育てることはできないかと、折に触れて文をだし、宮家へと通ったが、紅蓮がその姿を見せることはなかった。
苛立ちだけが募り、紅於はついに紅蓮の女房に取り入って、彼女の住まう殿舎に忍び込んだ。風の強い日だった。
風に踊る美しい癖をもった髪。初めて見た美しい横顔が、はっとこちらを向いた時、紅於の指先に何かが揺れた。紅蓮の美しい髪の一房が風に流されて、扇を持つ手をくすぐる。紅於は驚いて、手にしていた扇を取り落とした。
悲鳴をあげそうになった紅蓮に、慌てて手を伸ばす。触れた身体の細さを感じると、胸を締め付けられるような痛みを感じた。
(「ご無礼をお許しください、紅蓮の宮。私は橙家の紅於と申します」)
なり振りかまわず名乗り、ただ会いたかったのだと告げた。
紅蓮の頬が赤く色づくのを見ながら、紅於は一瞬にして心を奪われたのを自覚した。
(なぜ、このようなことになってしまったのか)
蘇った想い出に、胸が張り裂けそうになる。会いたくてたまらない。
ぱたりぱたりと涙が文字を滲ませる。
奔放で不作法な紅於は、会うたびに紅蓮に小言を賜ったものだ。素直な性分ではなく、難しい姫宮だっだが、紅於にはその不器用さが愛しくうつった。
(――なぜ、紅蓮の宮が)
胸の内にできた虚無に、ゆっくりと喪失感が嵩を増してゆく。
まるで花びらが堆積してゆくかのように。
(なぜ……)
涙で袖を濡らしていると、ふわりと居室に不似合いな甘い芳香が漂う。誰かが香でも焚いたのだろうか。紅於がゆっくりと顔を廊へ向けると、天女のような女が足音もなく歩み寄ってくる。
天意に愛された先守。一瞬、うたた寝でもして夢を見ているのかと錯覚する。
現れたのが華艶の美女であることは、疑いようもない。
感傷に浸っていた心を引き戻して、紅於はその場に立ち上がる。
「華艶様! なぜ、このようなところへ」
「あなたの強い悲嘆が妾をお呼びになったのです」
紅於は咄嗟に従者を呼ぼうかと思ったが、すっと差し出された白い指先が、唇に触れる。
「紅於様のお気持ちはお察しいたします。妾には視えたのです。紅蓮様がどのように魂魄を落としたのか」
「あなたに?」
「紅蓮様を討った者は、いま近くにおります」
「討たれた? そんな、まさか」
「赤の宮もひどいお方です。真実を秘匿するだけでは事足りず、朱緋殿の最奥に、そのような者を匿うとは」
「内裏に? まさか赤の宮がそのようなことをなさるはずがない。それに、紅蓮の宮は麒麟の目のもたらす鬼に呑まれたと、そう聞いています」
紅於が言い募ると、華艶は袖で口元を抑えて小さく笑った。哀れむような含みがあった。
「すぐに真実がお分かりになりましょう。紅於様、あなたの愛しい姫宮は、禍となる闇呪によって討たれ、魂魄を落とした。それだけが、妾がお伝えすることができる真実です」
最高位の先守が語る真実。これはすでに起きた出来事であり、占いではない。そう反駁するもう一人の自分を感じながらも、紅於は心が不穏な闇に向かって傾くのを感じた。
喪失感で満たされつつあった虚無に、一滴の憎悪がしたたり落ちる。途端に悲しみだけを映していた波紋が不自然に歪んだ。止めようのない濁流が生まれ、怒涛の勢いで新たに注がれていく感情が心を埋め尽くしていく。
憎悪。
悲しみが上書きされて、失われていく。
紅於が囚われれるのに、時はかからなかった。




