第四章:三 折れた麒角(きかく)
闇呪が崩れるようにその場に膝をつく。彼方には何が起きたのかわからない。咄嗟に胸を押さえた闇呪の両手に、じわりと不似合いな色がにじむ。それが鮮血の赤だと気付いて、ようやく金縛りが解かれたように、彼方も駆け寄った。
守護に支えられてはいるが、闇呪は意識を保っている。胸に突き立っている何かを引き抜こうとしていたが、力を込めるたびに血がしぶいた。
「お、黄王」
さすがの鳳凰も動揺を隠せないのか、彼に縋り付いて涙目になっている。
「闇呪の君。無理に引き抜かない方が……」
白虹の皇子も膝をついて、血に濡れた闇呪の手に掌を添える。彼が胸に突き立ったものから手を離した。
「ーー!」
麟華が小さく悲鳴をあげる。
血に濡れた、鋭利な何か。
それが何であるのか。
翡翠には焼かれた古木にように見えたが、しっかりと見極める時間はなかった。
鳳凰が叫ぶ。
「ダメだ! 黄王!」
「来る! 霊脈から!」
甲高い声を聞きながら、翡翠は時の流れがゆったりと狂うのを感じた。ただ身動きも出来ず、知らない世界の出来事のように一部始終を見ていた。
いつか異界の教室で見た、悪意に触れた鬼に似ている。
不気味な渦。
黒い――悪意の竜巻。もがき苦しむように動きながら、猛烈な勢いで迫って来る。
「!!」
来ると思った時には、既に巻き込まれていた。視界が闇に呑まれ、身体ごともっていかれそうな風圧が襲う。鬼に構える隙もない。全てが瞬きするほどの一瞬だった。呆気なく風が収束する。光が戻った。
「主上!」
麟華の悲鳴で、翡翠は呪縛を解かれたようにハッと呼吸する。
闇呪は衝撃で気を失ったのか、力なく守護の腕に抱かれていた。鳳凰はまだ辺りを警戒している。
闇呪の胸に刺さる古木に、迫り来た全てが吸い込まれて行くのを、翡翠は見ていた。
標的は闇呪。
だから自分達は無事だったのだろうか。
怒涛の鬼にその身を侵されて、赤銅色の輝きが失われている。漆黒までは至らず、異界で初めて見た時と同じ、深い色合いに染まっていた。
翡翠はふと違和感を覚える。闇呪だけが、違う。
異界に渡っても、自身が纏う色は歪まない。彼だけが、なぜ漆黒を纏っていなかったのか。朱桜の禁術が解けて、なぜ赤銅色の輝きを手に入れたのか。
突如、胸に芽生えた予感。
泉を満たす湧水のように、緩やかに心を侵す憶測があった。
まさかと思ったが、振り払うことができない。
「黄王……」
ようやく鳳凰が警戒を解いて闇呪を取り囲む。
「これ、麒麟の角じゃない?」
少女が闇呪の胸に刺さっている物を示す。顔色を失ったまま、麟華が力なく頷いた。
「あなたの片割れの?」
少年の声にも、彼女は頷くだけだった。さすがに立て続けの出来事に動揺しているのだろう。闇呪を支える手が震えている。
「翡翠様」
寄り添う雪も顔色をなくしている。自分の指先からも血の気がひいて、手が冷たくなっていた。
翡翠は改めて闇呪の胸に刺さる古木のようなものに目を向けた。
叩き折られたかのような断面。鳳凰のように麒麟の角だと見分けられないが、麟華の様子からは愚問だった。
霊獣である黒麒麟を凌ぐ力。例え黄帝でも一筋縄ではいかないだろう。
「鳳凰、彼を乗せて飛べますか」
誰もが狼狽える中で、白虹の皇子だけが次の展開を思い描いていたようだ。
「もちろん! 皇子が一緒に乗って黄王を支えてくれたら良い」
「わかりました。助かります」
「じゃあ、私はあなた達を乗せて飛ぶわ」
少女の面影を宿した凰が、翡翠と雪を見る。翡翠はようやくいつもの自分を取り戻した。
「ちょっと待ってよ。朱桜の姫君の居場所が、闇呪に安全だとは限らない」
「はぁ?」
少女は黒目がちの瞳を見開いて、大袈裟なくらいに翡翠を侮蔑する。
「主上が黄王に害を与えるわけないでしょ?」
「姫君の気持ちの問題じゃない。置かれた立場と状況が問題なんだよ」
「はあぁぁ? むしろ主上が守ってくれると考えるでしょ? ふつうは!」
「闇呪でもやられる相手なんだ。そんな簡単な話じゃない!」
「主上は相称の翼よ!」
「だからーー」
「まぁ、待ってください。二方とも」
白虹が小競り合いの仲裁のためか、闇呪の傍らから立ち上がった。
「翡翠の王子。明らかに闇呪の君を狙っている何かがある。暴かれた居場所に居続けるのも危険です。いえ、きっと彼はどこにいても危険でしょう。何を選んでも危険が伴うなら、私は朱桜の姫君を追うことを優先したい」
「皇子」
たしかに天界に闇呪の居場所はないに等しい。
皇子の示す通りかもしれない。彼の住処だからといって、安全な訳でもない。翡翠はただ闇呪が回復をはかる刻が必要だと考えただけだった。
「――はい。行きましょう。皇子の言う通りです」
闇呪の回復をはかるよりも重要なことがある。何よりも、自分達は朱桜の姫君の真実の名を守りたいのだ。それが、一番闇呪の平穏に繋がるはずだった。
「わかったのなら、乗って!」
不思議な仕掛けのように、唐突にバサリと大きな翼が風を切る。少女の面影は跡形もなく、黒い炎を纏っているかのような、美しい姿へ変幻を遂げた。
少年の容貌をした鳳は、主を支える麟華に労わるように声をかけた。
「大丈夫? 麒麟なら俺達の後を追えるよね」
「ええ」
頷く麟華の顔色は青白い。闇呪が不死身であることは守護なら承知しているだろう。
折れた麒角。
翡翠にはそれが何を表すのか、どれほどの意味を持つのか、はっきりとは掴みきれない。只事ではないという危機感があるだけだった。
麟華は同胞である麒一の行方が気がかりなのか、あるいは最悪の予感を抱いているのかもしれない。
けれど、闇呪が倒れた今、守護としてどうあるべきなのか。麟華の矜持が翡翠にも伝わってくる。彼女は迷わず、麒一の安否よりも闇呪の側に在ることを優先したようだ。
「行こう!」
闊達な声が響く。少年もバサリと翼を広げて黒炎を纏う巨鳥に変幻を果たした。




