第三章:六 新たな役割
「主上に咎はありません」
「本気で言っているのか」
苛立たしげな声が、怒りをはらんでいる。鳳凰の嗚咽が、張り詰めた沈黙をわずかに緩めていた。主の気迫を前に身動きできなくなった黒麟の前に、すうっと奏が立ちはだかった。何も恐れる素振りを見せず、白刃の閃きを思わせる強い眼差しで、遥と対峙する。
「朱桜の姫君が遥を愛していたとしても、あなたが禍になるとは限りません」
「奏。今はあなたの気休めに耳を貸すことはできません」
とりつく島のない遥の気色にも怯まず、奏は一歩彼に歩み寄る。黒麟の与えてくれたこの機会を逃さないという強い意欲が、彼方と雪にも伝わってくる。
「相称の翼が黄后である必要はありません。朱桜の姫君があなたを比翼として、黄帝に仕える途も残されています。相称の翼があなたを愛していても、彼女は役割を全うすることができます。それが世の正しい理です」
「あなたの気休めに付き合うつもりはない」
「これは事実です」
「――莫迦げている」
「事実です」
言い募る奏に、遥は苛立ちを隠さない。
「白虹の皇子、ご自身の立場をわかっておいでか?」
「もちろんです」
「これ以上私を怒らせることは、御身にとって得策ではない」
「私は我が君に事実を申し上げているだけです」
遥から滲みだす怒りの濃度が高まっていくのがわかって、彼方は掌に汗が滲んでくる。その時、ふっと上着をひっぱっていた力が緩む。彼方が視線を動かすよりも早く、すぐ傍らから雪の震える声が聞こえた。
「闇呪の君、兄様が今更あなたに嘘をついて、何の意味があるでしょう?」
遥の射るような視線を受け止めて、雪は気持ちを奮い立たせるようにぎゅっと手を拳に握りしめる。
「兄様の言っていることは、事実です。兄様の言葉も、朱里さんの――朱桜の姫君の想いを信じないのも、それはただ、あなたの弱さではありませんか。あなたは全てを恐れて、ただ目を逸らしているだけです」
「ゆ、雪!」
闇呪の逆鱗を覚悟して、彼方は咄嗟に雪の前に進み出た。遥が瞠目するのを見ながら、彼方は心臓が握りつぶされるような危機感に耐えられず、固く目を閉じる。
どんな制裁が下るのかと生きた心地のしない瞬間。背筋を冷や汗が流れていくのを感じながら、彼方はただ雪を背にかばったまま、長い刻を立ち尽くしていた。
「――その通りです、姫君」
止まっていたかのような刻が、遥のよく通る声で流れ出す。彼方は恐る恐る顔をあげた。拒絶を糧に膨れ上がった怒りは、すでに息を潜めている。遥は激昂することもなく、額に手をあてて自嘲的に笑う。
赤銅色の瞳が、なぜか闇を映していた時よりも昏く見えた。
「私は恐れている、――最悪の事態を」
低く笑う声に、悲嘆が震えている。彼方は思わず眉根を寄せた。
「主上」
麟華も労わるような眼差しを向けている。鳳凰も涙で頬を濡らしたまま、遥を見つめていた。遥は守護を振り返って「すまない、麟華」と詫びる。
「本当は朱里を――朱桜を信じるお前の気持ちは嬉しい。彼女を憎むことのないお前の想いが、私の救いだと言ってもいい」
遥は内に巣食うわだかまりを吐き出すように吐息をつくと、奏を見た。
「白虹の皇子。私は禍になることは厭わない。けれど、それが朱桜を苦しめる結末になることを恐れている。どんな経緯があろうと、誰を愛していようと、彼女は私が破滅することに心を痛めるでしょう。それが役割であるとは割り切れない」
奏は全てを心得ていると言いたげに頷く。
「だから、何もできない、動くことができない。そういうことですか?――闇呪の君、あなたが禍になるとは限らない。いいえ、むしろ私はもっと違うことを思い描いている位ですよ」
遥が怪訝な表情をすると、奏はいつもの調子を取り戻したのか、涼しげに微笑む。
「鳳凰を相称の翼に授ける。それがあなたの新たな役割ではありませんか」
「新たな役割……」
「そうです。そんなふうに考えてみるのも悪くないでしょう。これからも、あなたが相称の翼のためにできることはあるはずです」
奏は遥を促すように鳳凰に視線を移す。
「それに鳳凰は、あなたの助けを欲していますし、簡単に諦めるとも思えません。これも何かの縁でしょう」
遥が振り返ると、さっきまで泣きじゃくっていた幼い二人が、途端にパッと顔を輝かせた。脱兎のごとき素早さで遥にまとわりつく。
「本当? 黄王? 我が君のところまで一緒に行ってくれるの?」
「本当に?」
まだ何も答えていない遥に、鳳凰は既に返答を決めつけて嬉々としている。幼い容貌のせいか、図々しいというよりは愛嬌だった。ころころ変わる様子が可笑しかったのか、遥がふっと小さく笑う。嬉しそうに声を揃えてはしゃぐ鳳凰の期待を無碍にはできなかったのか、ついに降参したかのように頷いた。
「そうだな。――私でよければ、力を貸そう」
遥の声にかぶる勢いで、二人の甲高い歓声が響き渡る。けたたましさに拍車のかかった鳳凰を微笑ましく眺めながら、彼方も胸を撫で下ろす。無事に当初の思惑通り、遥を天界へ導く筋道は描けたようだ。
雪と「良かったね」と顔を見合わせていると、遥が鳳凰に縋りつかれたまま、何の前触れもなく雪の前に立った。端正な顔が、彼方が見たこともない柔らかな表情に歪む。
「姫君。ありがとう」
遥が言い終わるか終わらないかのうちに、彼方の隣で雪の顔がボッと盛大に紅潮した。
「い、いえ。あの、生意気なことを申し上げました」
いつも毅然と背筋を伸ばしている雪が、気まずそうにうつむいて、指先を忙しなく組み替えている。
「君は、私の恐れを暴いてくれた」
「申し訳ありません」
遥の背後から顔を出して、鳳凰が反射的に謝ってしまった雪を仰ぐ。
「黄王が感謝しているのに、謝るなんて変なの」
「そうよ。黄王をその気にしてくれて、ありがとう」
鳳凰の生意気さに、遥は何かが吹っ切れたかのように声を立てて笑った。雪はますます頬を染めて、もじもじとしている。彼方は見たこともない雪の様子に、じりじりと心が妬ける。遥が麟華を振り返って背を向けた瞬間、思わず舌を出していた。




