九章:ニ 金域:暴君
「今更、何を話して聞かせる必要があるのだ。この女は朕のものだ。相称の翼となり私を救う。そなたがそう申したのであろう」
まさか華艶との会話を聞かれてはいなかっただろうか。狼狽したが、朱桜はそれよりも恐ろしさで身が竦んだ。激昂する黄帝を信じられない思いで見る。
何かが最も望まぬ結末へ向かっている気がした。
「陛下、姫君はまだ加減がおもわしくございません。そのように――っ」
「黙れっ、華艶」
ばしりと音がして、華艶がその場に倒れた。黄帝が平手で殴ったのだと理解するまで、一呼吸の時間が必要だった。朱桜は信じられない想いで目の前で繰り広げられる、悪夢のような光景を見ていた。
これまでの優しげな行いが嘘のように、黄帝が激昂している。我を忘れた暴君のような変貌ぶりだった。頭の片隅で逃げなければならないと警鐘が響いているが、朱桜は動くことが出来ない。
もし黄帝の意に添わぬ行いをすれば、自分ではなく闇呪が黄帝の逆鱗に触れるかもしれないのだ。黄帝が闇呪に敵意を持つようなことがあってはならない。だからといって、黄帝の想いに応えることはできない。朱桜にはどのように振る舞うべきかわからないのだ。
どうすれば、この状況を打開できるのか。
息苦しさと眩暈がひどくなったが、意識を手放すわけにはいかないと気力を振り絞る。
「朕は永く待った。この身はもう限界なのだ。それはおまえが一番よく知っていよう」
「ですが、姫君はまだお心の準備が」
「そなたは先程、時が来たと申したではないか。朕はもう待てぬ。この苦しみから解放されたいのだ」
「それはわかっております。ですが――」
言い募ろうとする華艶を黄帝が蹴り飛ばす。さらに声を荒げながら華艶を室内から追い出した。部屋の向こう側で華艶が何事かを叫んでいるが、いずれそれも費えた。
静寂が戻ってくる。
「朱桜」
黄帝がゆっくりと寝台へ歩み寄ってきた。朱桜は体の芯から恐怖におかされ、がたがたと小刻みに震える。
「へ、陛下。申し訳ございません」
何と言うべきか言葉が見つけられないまま、朱桜は謝罪していた。
それが陛下の前で不調で倒れたことに対してか、闇呪を愛していることに対してなのか、朱桜にもわからない。陛下がどのように受け止めているのかもわからなかった。
「そなたが謝ることなど何もない」
さっきまでの激しい怒りが嘘のように穏やかな声だった。朱桜はふっと緊張が緩む。途端に蘇った具合の悪さに苛まれた。呼吸が苦しい。焼け付くように熱い。
熱さが段々と痛みに変わり始めている。体がまるで違う物に変幻を遂げようとしているかのような不可思議な痛み。
黄帝の氣に当てられたせいだと云う。朱桜は黄帝の力の片鱗を見た気がして、その偉大な存在意味を改めて思い知る。
「さぁ、朱桜。わたしはこれ以上待てぬ。相称の翼となりこの世を救ってほしい」
「陛下、わたしは……」
心の準備ができていない。違う、誰よりも闇呪を愛しているのだ。忘れられる筈がない。この心が望むのは彼だけなのだ。
黄帝の想いに応えることはできない。
けれど闇呪を窮地に追いやることも避けなければならない。
「永く闇の地に置いたことは心苦しく思っている。しかし、全てはこの世の平穏のため。そなたは既にこの世の禍を断つ力を手に入れたはず」
「なにを……」
何を云っているのだろう。禍を断つ力など手に入れていない。そう思ったが、朱桜はすぐにはっと思い至る。
(――まさか、そんな)
与えられた真実の名。それは心を示すだけの儀式ではない。与えたものに魂魄を捧げるに等しい行為。
(そんなこと――)
全てがはじめから仕組まれていた成り行きだというのか。闇呪に愛されることも、真実の名を与えられることも。それが相称の翼となる自分の役割だったとでもいうのか。
朱桜は足元から奈落の底へ落ちていくような感覚に囚われる。
「華艶は既に、そなたがその大役を果たしたと申しておった」
未来を占う先守――華艶の美女。先守であるがゆえに、彼女は全てを知っていたに違いない。あの慈愛に満ちた眼差しに宿っていた哀しげな光。あれは自分に与えられた残酷な役割を哀しんでいたのだろうか。
そして、哀しみの内によぎった一筋の厳しさは、その役割を受け入れてこの世の為に生きろと示していたのだろうか。
この世のために――。
(「――妾にも覚えのある感情です」)
唐突に蘇る言葉の重さ。華艶もこの世の為に闇呪への想いを断ち切ったのだろうか。
「ようやくそなたを傍におく時が訪れた。だから、朕はもう待てぬ。そなた自身、既にその身に朕の想いを受けているだろう。その変化が何よりの兆しだと……」
「変化?」
「そう、朕の想いを受け止める時が来たのだ。どれほどこの日を待ち望んでいたか」
そんな筈はない。黄帝の想いを受け止められる筈がない。あるいは自分の心が拒絶しているから、こんなにも苦しい思いをしているのだろうか。
「朱桜。愛を以って、そなたの真実の名を朕に与えよ」




