第4章:4 非日常2
学院に起きる不可思議な出来事。それが噂どおり鬼の巣窟を示しているのかは分からないが、単なる噂ではないのだろう。
朱里もさっき恐ろしい女子生徒を見たばかりである。学院の言い伝えが、単なる噂ではないことを身を持って体験したのだ。
おそらく理事長は学院の守り役として遥の力を欲した。だから彼を呼び寄せたのだろう。もしかすると、朱里の記憶から失われてしまった遥との経緯にも、学院で起きるような不可思議な出来事が関わっているのかもしれない。
それがあまりにも恐ろしい出来事だったから、朱里は記憶から消し去ることで自分を守った。
齟齬のない筋道だと思えた。全ての辻褄があうような気がする。
朱里が自分で組み立てた成り行きを話してみると、遥は頷いた。
「たしかに、それで辻褄があう」
正しいとは言ってくれなかったが、朱里にはここまで推測ができれば充分だった。これ以上遥の素性を問うのは、彼の過去を暴くことに繋がる。ありえない力を持って生まれた彼が、これまでを平穏に生きてきたとは思えなかった。
「私、先生の抱えている嫌な思い出を引っ張り出したのかもしれません。ごめんなさい」
口数の少ない遥に、朱里は頭を下げた。
「でも、先生。そんなに見守っていただかなくても、私は幸せになってみせますから。あまり心配しないでください」
過去の出来事が彼を縛り付けていることは、朱里にとっては心苦しい事実である。遥はようやく笑顔を取り戻して頷いた。
「君は変わらないな。……ずっと、そのまま変わらないでほしい」
「努力します」
素直に応じると、彼は遠くを見るように眼差しを細めた。自分の中に刻まれた記憶を辿っているような横顔だった。
「君を追い詰めたのは私だ。そのせいで、君には計り知れない出来事が続くかもしれない。これから、あらゆる思惑が君を巻き込んで、求める。君がそれを拒むのなら、私は命をかけて阻止する。けれど……」
朱里は思わず鼓動が高くなる。眼鏡を外した素顔で、そんな熱烈な告白を聞かされたなら、誰だって動悸がするに違いない。
「朱里、これだけは覚えていてほしい」
朱里は胸の高鳴りが急激に沈んでいくのを感じた。遥の声は迷いなく告げる。
「君には想いを遂げてほしい。私のために、いつまでも心を偽る必要はない」
遥と関わった記憶がない自分自身を、朱里はもどかしい気持ちで怨んでしまう。彼がこれほどに心を砕く理由が分からない。それは過去の出来事に秘められている。
封印された記憶の中で、自分と遥の間にどのような経緯があったのか。朱里には全く手掛かりがなかった。だからと言って、問い正すことも出来ない。
触れられたくない記憶は誰にでもある。
遥の抱えているのだろう傷跡を抉るとわかっていて、詳しく聞くことは出来なかった。
「君は覚えていないが、君と出会ってから私は満たされていた。生まれてきた意味は、君が与えてくれた。だから、君の想いが私を滅ぼすことになっても、それを悔やまないでほしい」
「あの、先生。それって、何だか愛の告白みたいだし、いずれ私が先生を滅ぼしてしまうみたいに聞こえます」
恥ずかしさで頬が朱に染まる。遥はそんな朱里の様子を眺めて薄笑いを浮かべていた。まるでさっきまでの真摯な態度は演技だと言いたげである。朱里は嫌な予感がして、遥を睨んだ。
「もしかして、生徒をからかっていませんか」
「うん、狙った以上に面白い反応だな。その年で彼氏もいないっていうのは、本当だったらしいな」
「なっ、そんなこと誰が……」
「天宮先生に聞いた」
朱里は全身の血が沸騰しそうなくらい恥ずかしい。遥は分厚い眼鏡を取り出してかけると、途端に冴えない副担任に化ける。完全に弄ばれていると、朱里は拳に握り締めた掌がぶるぶると震えた。
「さっきの話も嘘ですか。どこまでが本当なんですか。いい加減にしてください」
くわっと食って掛かると、眼鏡の奥にある小さな目が優しく歪んだ。
「それでだいたいの辻褄が合うようですし、本当ということでいいでしょう」
「副担任ぶらないでください」
「私は正真正銘、副担任ですから。それに、朱里。愛の告白みたいで良かったでしょう?」
「さいていですっ」
もうこれ以上は付き合っていられないと、朱里は立ち上がって帰る決心をした。
「天宮さん」
「何ですかっ」
振り返らず答えると、副担任の声が追いかけてきた。
「さっきの話を信じるか信じないかはお任せしますが、君がこれから巻き込まれるのは本当です」
朱里はぐるりと遥を振り返った。
「私が巻き込まれたら、今日みたいに先生が守ってくれるんですよね」
「もちろんですよ」
あっさりと頷かれて、朱里は「はぁ」と溜息をついた。遥の態度はどうであれ、やはりさっきの話はそれなりに核心を突いているのだろう。
朱里は気を取り直して、笑って見せた。
「それなら安心です。よろしくお願いします」
素直に伝えると、彼は一瞬遅れて反応した。
「――こちらこそ」
佇む副担任を残して、朱里は一礼してから理科室を出た。廊下に出ると恐ろしい女子生徒の姿が、鮮明に脳裏に蘇ってくる。
これまでの日常が覆されていく。
あんな体験をしたのに、強烈な恐れは消え去っていた。遥を突き放すことが出来なかったときに、朱里は気がついてしまったのだ。
本当は彼と出会ったあの夜から感じていたのかもしれない。
もう後戻りは出来ない。強く何かが警鐘を鳴らしていた。
踏み込めば平穏な日々は形を変えて何かが動き出す。
分かっていたのに、朱里は一瞬で全てを受け入れてしまったのだ。
怖くないといえば嘘になる。
遥の態度からは、どこまでが本当のことなのかも掴みきれない。
けれど。
朱里は理科室の中にある気配を確かめてから、祈るように胸に手を当てる。
(先生は、必ず守ってくれる)
それだけは信じられる気がしたのだ。
朱里は深く息を吐き出してから、ゆっくりと歩き出した。




