エピローグ:1 案内人
目の前が涙で霞む。瞬きすると一瞬だけ拭われたが、またすぐに視界が揺らめいて滲む。
もうここにいてはいけないという思いに突き動かされて、彼女は夜道を走り続けた。
(――どうして)
幾度もどうしてなのかと反芻しながら、深夜の道を独りで駆け続ける。人目を忍ぶのは容易い時間帯だったが、彼女はそれでも自身の姿を覆い隠すように、フードのついた上着で長い髪を隠していた。
全てを思い出しても、朱桜には判らないことがあった。
(……判らない、どうして)
どんなに考えてもこれまでの経緯がうまく呑み込めない。理解できない。
(だけど、ここにはいられない)
筋道の通らない経緯の中で、ただ一つそれだけが形になる。
これ以上、彼の傍に在ってはならいのだと。
その想いだけが、悲嘆に暮れそうになる朱桜を突き動かしていた。
これまでの成り行きを取り戻しても、彼女にはこれからどうすべきなのかが判らない。心に決めた覚悟を形にするために、何が必要なのか、どんなふうに振る舞うべきなのか想像がつかないのだ。
どこに行けば良いのか判らないまま、彼女は天宮の学院へ向かっていた。今後の判断がつかないまま、天界へ戻る術を探していたのかもしれない。
天宮朱里として、毎日のように辿った通学路。本性を取り戻した今でも、短い道程への親しみは変わらない。初めて遥――闇呪に出会う契機となった、級友の企てを思い出す。同じように夜道を辿って、待ち合わせ場所へ一番乗りした記憶。
何も知らないまま、朱里は副担任として現れた遥に想いを寄せた。
全てを取り戻した今となっては、それが必然であったのだと理解できる。
どんなふうに姿を変えても、立場を変えても、想いは同じ処にたどり着くのだ。彼と出会ってしまったら、逃れられない。往くべき道は決まってしまう。
取り出した思い出が、更に朱桜の哀しみをあおる。涙を止めることができないまま、彼女は学院の塀に寄り添うように、高等部の正門を目指していた。
何も知らずに遥を慕い、想いを伝えられた日々。どんなに幸せで満たされた世界だったのかが判る。
けれど、今となってはその夢に焦がれても、戻りたいとは思えない。
彼が自分を見捨てることはなく、護り続けてくれることを知ってしまったから。想いを添い遂げることができなくても、彼は変わらないのだ。
何があっても、追いかけてきてくれる。
朱里を――朱桜を愛し続けてくれる。
だから、これ以上彼を苦しめるような身勝手な夢を望むことはできない。
彼を追い詰めるだけの幻想に浸ってはいられないのだ。
胸に刻んだ覚悟。弱い自分を振り切って前に進むことを決めた。もう逃げない。二度と振り返らない。
彼を護るために必要な立場を、振る舞いを演じてみせる。
遥を――闇呪を、決して世の禍などにはしない。乗り越えて、違う世界を築いてみせる。
どんな苦境を架せられても、心を押し殺してでも、成し遂げるという強い決意。
そのために必要ならば、自分は黄帝の手を取って黄后になる。人々が禍を忘れるくらいに、豊かな世を齎してみせるのだ。心を殺して世の礎になってみせる。
絶対に彼を失うような未来は歩まない。傍にいなくても良いのだ。ただ同じ世界で生きていて欲しい。遂げられない想いの変わりに、託した希望。
互いに望んだのは、愛した人が生きる世界が、――未来が輝いていること。
世の豊かな未来を望む。
彼とは、その同じ夢で繋がれている。それが二人の望んだ想いの行方。
今度こそ、彼に応えてみせる。
朱桜はゆっくりと立ち止まった。高等部の正門前に、人影が佇んでいる。
何者かと張り詰めていく気持ちで身動きできずにいると、それはゆっくりと歩み寄ってきた。
「こんばんは、朱里様。――いいえ、朱桜様。往かれるのですね」
本性を取り戻した朱里は、訊きなれた声にわずかに緊張を緩めた。今までの経緯を振り返っても、彼の登場に違和感を覚えない。いつも絶妙の機会で姿を現した。
朱桜は涙で濡れた顔を、慌てて上着の袖で拭う。
「東吾さん」
呼びかけると、彼の気配が同じように緩んだ。
「どうして、こんな処に?――もしかして、先守の占いですか」
東吾の背後に在る人影が、動かないままこちらを見ているのがわかる。朱桜の声に不安が滲んだことに気付いたのか、東吾は問いかけには答えず背後を見返った。
「碧宇の王子」
朱桜はびくりと反応してしまう。その名は碧国の王子であることを示している。四国の継承者は黄帝の命を受けて、こちらに関与している筈だった。
朱桜は東吾がそんな経緯の者とも繋がっているのが意外だった。天界に関わることを語らずとも、彼は遥や彼方に与する立場にあるのではないかと思っていたのだ。
朱里の父を演じていた天宮――堕天したと言われている先守の思惑がわからない。
東吾の背後で、突然しり上がりの口笛が鳴った。朱桜が驚いて胸を押さえると、碧宇は「なるほど」と楽しげに呟いた。
「東吾、おまえの思惑には触れずにおこう。この方が在れば、天界の未来は救われる筈だからな」
感情の読めない東吾の声が夜道に響く。
「王子は決してご自身の正義を見失わない方です。世の行く末を守る。その為に必要ならば、ご自身の弟を切り捨てることも厭わない」
起伏のない淡々とした口調は、いつも通りだった。東吾の感情をはかることは難しいが、朱桜にはどこか皮肉めいた調子にも受け取れた。それは碧宇も同じだったのか、彼は「はっ」と吐き捨てるように笑う。
「おまえにはわからんかもしれんがな。俺達にとって先守の占いは絶対なんだ。黄帝の仇となるような不名誉な未来を翡翠に歩んで欲しくはない。せめてその前に葬ってやるのが、兄としての真心だ」
「あなたにとって、黄帝が世の未来ですか」
東吾の皮肉を込めた調子は変わらない。碧宇は「ふん」と顔を背ける。
「哀しいことだが、俺の生きる世界はそういう形をしている。――ご存知でしょう?朱桜様」
東吾への悪態ともとれる態度を改めて、彼は唐突に朱桜へ語りかける。何も答えられずにいると、長身の影が音もなく前に進み出た。朱桜が思わず一歩後退すると、彼はすっと膝をついて頭を下げる。輪郭だけが描かれていた闇の中から、碧宇の姿が見分けられる程度に浮かび上がった。引き摺るほどの雅やかな衣装が、天界の王族であることを物語っている。




