第十章:2 鬼(き)の坩堝(るつぼ)の真実
「皇子、あなたのその後は、風の噂となって私の耳にも届きました。私はあなたに叶うことのない希望を与えてしまったのかもしれない。あなたは彼女のために、王となるべき才覚を無駄にした。――私の行動が浅はかでした」
呟くように語られた思いに、奏は微笑みを返す。彼方は一体何の話をしているのかと、雪と不思議そうに顔を見合わせた。
「闇呪の君、あなたの行いが浅はかなのではありません。諦めることの出来ない私が愚かなのです。あなたはただ白露の先途を救おうとしただけです」
「私の自己満足に過ぎません。その後のことを考えず、徒にあなたの想いを迷わせるだけでした」
悔いるように遥が言い募る。奏は自嘲するようにふっと小さく笑った。
「世の風聞は、何と当てにならないのでしょうか。私はあなたに対して、悪意や恐れを感じることができません。本当に恐れるべきことが他にあるような気がしてしまうのです。当時、誰もが見捨てた白露の行く末を、あなたはただ救うためだけに訪れてくれました。魂魄を弄ぶことも、世の破滅を願うこともなく……」
独白のように語り、奏は真っ直ぐに遥を見つめる。彼方はいつのまにか肩に力が入っていたらしく、雪の指先が腕に触れるのを感じて力を抜いた。
「あなたは私にとって、かけがえのない翼扶の恩人、それだけです。その行いは誇るべきことで、悔いることなど何一つありません」
心から納得したようには見えなかったが、遥はただ頷いてみせた。奏は続けて驚くべきことを告げる。
「私はあなたに恩返しがしたいのです。闇呪の君、私が何かの役に立てるなら、惜しむことなく力をお貸し致します」
傍らで兄の申し出を聞いていた雪は「兄様っ」と声をあげたが、少し前に奏の思いを聞かされていた彼方には、覚悟していた成り行きだった。遥と再会を果たせば、奏はそれがどのような道程でも、迷わず歩み出すような気がしていたのだ。
奏は慌てた妹の声を無視して、じっと遥を見つめている。駆け寄った雪は、強く兄の腕を引っ張って自分と向き合わせた。
「兄様、一体何を言い出すんですか。いくら恩人だとしても、彼は――」
雪はさすがにそこで言葉を詰まらせて、恐る恐る目の前の遥を見た。遥は気を悪くした様子もなく、雪に浅く笑って見せる。そのまま決意を語った奏へ目を向けた。
「皇子、感謝の意は確かに受け取りました。もう、それだけで充分です。私は見返りなど求めていない。申し出は有難いが、これ以上あなたが道を踏み外すのを黙って見過ごすほど、私は浅はかではありません。私に力を貸すということは、世に背くということ。禍に加担するということです」
兄の腕を掴んだまま、雪は驚いたように遥を見つめていた。彼方には彼女の心に芽生えた変化が手に取るように判る。自分が遥と出会って感じたように、彼への印象が覆っていく。このわずかなひとときの会話からでも、彼の人柄は感じ取れるだろう。
人々が語るほど、彼は非道でも非情でもないのだと。
「それに、皇子の気持ちが真実だとしても、私の立場ではそれを心から信頼することが難しい。……そこの王子にも伝えましたが、この天落の地は平穏であるとは言えません。今は天界へお戻りになった方が良い」
「――そうですか」
遥の柔らかな拒絶に対して、奏は吐息をつく。けれど、沈黙はほんの一瞬だった。
「では、闇呪の君。早急にあなたに知らせておきたいことがあります」
遥は眉根をよせて、訝しげな表情を作る。安息できる立場にない彼にとって、それは多くの危惧を抱かせるに違いない。彼方は思わず遥の胸中を量ってしまう。
「ついに地界の水源が腐敗をはじめたようです。ご存知でしたか」
奏はまるで何かを暴こうとしているのか、謎かけのように問う。彼方にはどんな思惑があるのか分からないが、遥を訪れた理由は過ぎた日々の真実を確かめるためではない。これからの目的を見極めるためなのだ。奏は過去に受けた恩義にだけ浸っているのではなく、的確に本題へと導いていく。
遥は地界の事実を聞いて、わずかに眉を動かした。
「まだ、地界にそれほど鬼が蔓延するとは思えませんが」
事実を伝えても、遥は動じることもない。彼方には彼がはっきりとそう言い切れることが不思議だった。奏の横顔は、何かを得たとばかりに笑みを形作る。
「これは私の憶測に過ぎませんが、鬼の坩堝の喪失は地界の衰退に関わってしまう。違いますか」
彼方は初めて耳にする話に、驚いて雪を見る。雪もそんな話は聞いたことがないと首を横に振った。
鬼の坩堝。闇の地で天高く巻き上がる巨大な黒柱。
彼方が天落の地へ旅立つ前に、何の前触れもなくその坩堝は喪失していた。それが人々の更なる不安を煽ったことは間違いないが、それだけで地界との関わりを思い描くことは難しい。
驚きを隠せない彼方達の前で、遥は何でもないことのように頷いてみせる。
「天帝の加護が費えている以上、鬼の坩堝が在ることは仕方がありません。神が失われた世に、鬼だけが広がり続ければ、世界は急激に疲弊してしまう」
「では、天界に在る鬼の坩堝は、地界の鬼を昇華させていた証」
「そうです」
遥はあっさりと肯定するが、彼方には衝撃の事実だった。雪も言葉を失ったまま、二人を見つめている。動悸のする胸元を掴みながら、彼方はひたすら会話に耳を傾けることしか出来ない。
さすがの奏も、気持ちを落ち着けるためか深い呼吸を漏らす。
「呪を以って鬼を制する。その力を以って地界の鬼を昇華させ、疲弊を最小限に食い止める。闇呪の君、私が知る限り、そんなことが出来るのはただ一人です」
奏が確信を突くと、遥はどのように受け止めたのか自嘲的に笑った。
「信じられないと、そう言いたいのでしょう? いずれ禍と成る私が世に貢献する役割を担うはずがないと。そう思われるのも無理はありません」
「どうして今まで、その事実を隠していたのですか」
「隠す? 隠していたつもりはありません。誰も信じないことを語っても仕方がない。それだけです。私はいずれ世を滅ぼす禍となる者。人々の目に鬼の坩堝がどのように映るのかは、想像に難くない。私にとっては、坩堝が役割を果たしているのならそれで良い。人々の語る真偽など関係ありません」
「関係ないって、そういう問題じゃないよ。関係大アリだよ。副担任っ」
彼方は憤りを感じて、思わず声をあげてしまう。遥が明らかにうるさいと言いたげな顔をした。
「副担任は天界や地界で自分がどう思われているか、何て言われているのか知っているわけ? 事実とものすごくかけ離れた噂が飛び交っているんだよ。なのに、どうして自分のことを悪者のままにしておくの? 地界の疲弊を食い止めるなんて、黄帝にだって出来ないことなのに。副担任はもっと人々に認められて、感謝されてもいい立場にあるのに」
「――別に認められることや感謝されることが目的でやっているわけじゃない」
奏と話す時よりも、明らかに口調が冷たい。彼方は怯まず声を高くする。
「だけど、そういうのってなんか悔しいじゃんっ」
「では、彼方、その無知な頭でよく考えてみろ。私が今どのような行いをしても、いずれは世を破滅に導く禍と成り果てる。そんな極悪非道な存在をいったい誰が認める? 何を感謝するというんだ。自分がどれほど矛盾したことを言っているのか判っているのか」
「それは、だけど……」
返す言葉を失って口ごもると、彼方の傍らで雪が初めて遥に声をかけた。
「あなたは呪を以って、常に地界の鬼を昇華させ続けていた。それが人々に認められるためでなければ、一体何のために?」
雪が緊張した面持ちで問うと、遥はまるで答えを模索しているかのように黙り込む。やがて真っ直ぐに見つめてくる雪の眼差しを無視できなかったのか、口を開いた。




