第九章:3 別れの予感 2
「その日が来たら、君は私にこう言う。――愛しているのはあなただけです。だけど、この世を見捨てることが出来ない。だから、行きます。――と。そう言って欲しい。それが、例え君の中にある真実ではなくても、そう言って欲しい。そうすれば、私が手に入れた想いは何があっても色褪せることがない」
朱里は双子に教えられた自身の立場を思い出した。唇に触れていた遥の手を追いかけるように、両手で引き寄せて捉まえる。強く握り締めると、抗議の意味をこめて彼を見据えた。
「それは私が相称の翼だから、ですか」
遥は何も答えない。朱里が夢の光景を双子に説明している時も、双子が朱里に異世界の事情を明かした時も、彼は一言も語ることをしなかった。ただ自身の守護である双子と、朱里の会話を見守っていただけである。
朱里は遥の目を見つめたまま、麒一が教えてくれた自身の立場を振り返る。
相称の翼――世の頂きに立つ黄帝の后となる者。
遥――闇呪の伴侶でありながら、どうして朱桜がそんな立場に在るのか。朱里は黄帝の宮から逃亡を謀っていたらしい自身の夢を思い描く。何かをひどく恐れながらも、闇呪を想い、心はずっと彼だけを追いかけていた。
麒一や麟華が考えるように、相称の翼となった成り行きには、何か理由があるに違いない。黄帝への想いが育ち、心変わりしたのだとは到底考えられない。
朱里の知る断片は全てではないが、それでも蘇った気持ちだけは確信できる。
「たしかに、私は先生の世界について知らないことばかりです。だけど、自分が望んで黄后になったとは思いません」
そうでなければ、黄帝の元から逃げ出す必要はないだろう。あれほどに闇呪を求める筈もない。最後に見た夢のあとに、何かがあったに違いないのだ。あるいは、既に何かが起きて、逃げ出していたのかもしれない。
朱里にとっては、そう考えることが自然だった。気持ちの筋道に齟齬があるとは感じない。感じない筈なのに、どこかで自分の無知さを責めるように警笛が鳴っている。遥に想いを伝えるときにも過ぎった、消えることのない強い警告。
いけないと、自分の想いを戒める声。
朱桜としての記憶を持たない朱里には、決して理解できない危惧。
辿りつくことの出来ない真実。
朱里が異世界――自身の生まれた世について、どのような理の上に成り立つのかを知れば、相称の翼が負う使命にも辿りついていただろう。
相称の翼。輝ける天帝の御世を築く礎。
世界を、人々を救うことができる、圧倒的な礼神。覆すことの出来ない世の掟。
朱里は異界の理が著しくこちらの世界とは違うという事実を、失ったままだった。
黄帝を頂きとして成り立つ世界、その真実を知らない。 誰にも説明されていない。
真実を知らない朱里にとって、黄帝という存在は一国の主という印象でしかなかった。だからこそ、相称の翼についても、世にとってどれほど重大な存在なのか判らない。
その立場を裏切ることが、どれほどの災厄を招くことになるのか。
知らないまま、朱里はただ訴える。
素直な、歪むことのない想いを。
「麒一ちゃんや麟華が考えるように、私がそんな立場に立たされた経緯には、きっと何か事情があると思います。だから、先生と一緒にいられなくなるなんて、姿を消すなんて、そんなこと考えられません」
つかまえた彼の手を握る手に、朱里は力を込める。遥は何かを噛み締めるように目を閉じた。ただ自分の手を握りしめている朱里の手を強く握り返す。
囁くような声が、静寂を貫いた。
「朱里が云うとおり、君が相称の翼となった経緯には、何か理由があったのかもしれない。何かを護ろうとしたのかもしれないし、あるいは、庇おうとしたのかもしれない。……決して、真実は判らないけれど」
「だけど、この気持ちは本当です」
「そう、――信じている」
繋いでいた朱里の手を、遥が強く引き寄せた。朱里が声を上げる間もなく、緩やかな衝撃に包まれる。胸に飛び込んだ朱里の体を抱きすくめるように、遥の腕に力が込められた。一瞬戸惑いを覚えたが、朱里はすぐに自分を取り戻した。抱きしめられた温もりと、響いてくる鼓動が、不思議なほど朱里の心を穏やかに支配する。
うろたえることもなく、朱里は眼鏡に守られた素顔を彼の胸に寄せて、瞳を閉じた。抗うような気持ちは芽生えない。ただ身を任せていた。
「私が触れても、君は決して穢れることがない。いつかこの日を悔いる時が来たら、思い出すと良い」
信じると語りながらも、遥の言葉は苦しくなるほど寂しく響いた。
朱里はぐっと歯を食いしばって、抗議するように白衣の襟を握り締めた。遥は無言の訴えをどう受け止めたのか、襟を掴んだまま自分の胸に顔を伏せている朱里の手に触れて、ゆっくりと引き離す。
朱里は手首をつかまれたまま、息遣いが伝わる近さで遥と見つめあった。彼の寂しい台詞に抗うように、視線に力を込めて睨んだ。
「私は先生に触れられても、穢れたりしません」
遥は困ったように笑い、わずかに頷いた。掴んでいた朱里の手首を離す。長い指先が、朱里の度のない眼鏡に触れた。するりと、音もなく眼鏡が外される。朱里は容易く素顔を晒してしまう。
「君のこの姿は、君の真実を護るための殻――鎧のようなもの。私が触れているのは、君の身を護る鎧。だから――」
「私はっ、――私は穢れたりしません」
彼の言葉を遮る形で、堪えきれずに朱里が繰り返す。同時に、遥の両手が朱里の頬を挟むようにして引き寄せた。吐息が触れる。
「君が穢れることはない。……それが、私の免罪符になる」
「せんせ……っ」
呟きをかき消すように、朱里は言葉を封じられた。激しく重ねられた唇から、熱が込み上げてくる。口づけを交わしたまま、朱里は呼吸を忘れそうなほど強く抱きしめられる。
まるで激流に耐えるように、朱里は腕を伸ばして遥の背中に回した。
しがみつくように。
決して見失わないように。
彼を好きだという気持ちだけが、得体の知れない罪過の底に沈んだまま、それでも輝いている。とめどない想いが、彼と触れ合った処から逆巻くように巡って、全てを染めていく。
彼を愛している。けれど、その想いは世界を滅ぼす。
朱里はまだ知らない。
彼が望むようにその言葉を語る日が来ることを。
その時が迫っていることを。
――愛しているのはあなただけです。だけど、この世を見捨てることが出来ない。だから、往きます――
許してくださいと、泣きながら告げる時が来ることを。
朱里はまだ知らない。
蘇ることが許されたのは、彼への想いだけ。その想いが断たれたことは、未だに封印されたまま秘められている。
――愛しているのはあなただけです。
蘇ることが許されたのは、彼への想いだけなのだ。




