第1話 序
関東で250万石の勢力を誇る江戸内大臣 徳川家康の家臣で、本多 中務大輔 忠勝といえば、戦国の名士の一人である。
忠勝は、かつて戦国最強を誇った武田信玄の軍から「家康に過ぎたるもの」と賛辞を受け、本能寺で倒れた信長からは「華も実もある武将」、「日本の張飛」と激賞され、天下を取った豊臣秀吉からは「古今独歩の勇士」と褒詞を贈られたほどの無類の「合戦師」で、徳川家随一の武将として世に突き抜けた知名度があった。
小編が語ろうとしているのは、この本多忠勝の息子の話である。
長男を 美濃守 忠政。
次男を 出雲守 忠朝という。
長男の忠政は、有名な「長篠の合戦」の年に生まれた。元服後は忠勝系統の本多宗家の跡取りとして「平八郎」の名を継ぎ、徳川家が天下を取ってからは播州 姫路15万石の太守となった。
温厚にして潔癖な男で、政治力があったらしく人の斡旋や調停が上手く、また勤勉で真面目な性格であったので主君である家康からもことに可愛がられ、その孫娘を嫁に貰うほどの厚遇を受けた。
灰神楽が舞うような戦国乱世が終息し、戦の種が世からなくなり、太平な時代になってゆく中で、この忠政は、為政者としても政治家としても、本多家を維持してゆくということにとっては理想的な男であったらしい。
そして、次男の忠朝。
この男こそが、本編の主人公になる。
本多 内記 忠朝――「合戦師」の遺伝子を継いだ男である。
忠朝は、天正10年(1582)に生まれた。
日本史において――あるいは世界史においても――この天正10年ほど重大な年はないであろう。つまり、あの信長が本能寺において横死した年なのである。日本の歴史の流れが大きく変わった年だと言っても、決して言い過ぎには当たるまい。
幼い頃の忠朝は、父の武勇譚を子守唄のようにして育った。無類の「合戦師」である父を心から尊敬し、父のように生きたいと思い、父のごとくありたいと願うようになったとしても、なんの不思議もない。
合戦とは、この時代の武士にとっては自分の存在と勇気とを誇示する場であり、その生命、生き様といったものを表現する場でもある。忠朝は、忠勝の薫陶の中で育った男であるだけに、子供のころから合戦に対する憧れと執着が非常に強かった。
忠朝の父である忠勝は、このころ非常に忙しい日常を送っていた。
信長が死んだ後の徳川家というのは、甲斐と信濃の覇権を争って北条氏と事を構え、それが終わった後は天下統一を目指す秀吉と戦うことになり、この争いが済み、秀吉に臣従してからは、今度は秀吉の天下制覇の尖兵となって北条攻め、奥州攻めと立て続けに戦に狩り出されている。
家康の片腕と言っていい忠勝の腰というのは家に落ちつく暇もなく、自然ゆっくりと忠朝を構ってやる時間もなかったに違いない。子供たちの養育はどうしても人任せになっていたはずだが、しかし、わずかな時間を割いては自ら二人の子供たちを引き連れ、馬に乗って野山を駆け回ったり、槍の使い方や弓の引き方なぞを教えてやっていたはずである。
忠勝が多少なりと時間に余裕を持てるようになったのは、秀吉によって天下が統一され、一時的に世から戦がなくなってからであろう。
徳川家は東海から関東に転封となり、忠勝は上総(千葉県)大多喜で10万石の領主となった。
大多喜での日常は、賑やかであった。
忠朝はいっぱしに大人を気取り始める頃であり、長男の忠政も元服、初陣ともに終えたとはいえ若い盛りである。兄弟は共に槍で打ち合い、馬で競い合い、生傷の絶える間もないほどであったに違いない。
秀吉が死んだ年、忠朝は17歳になっていた。
骨柄は父に似て衆に優れ、膂力の凄まじさというのは忠勝の若いころを彷彿とさせるようであり、その全身からは匂い立つような溌剌とした英気が溢れていた。
忠朝は、「兵法なぞは大将たる者に必要なものではない」という忠勝の方針から特別それに凝ったりすることもなかったのだが、天賦の才があるのか槍を持たせれば忠勝さえ舌を巻くほどの腕があり、ことに馬上での槍さばきは天下逸品で、この頃になると忠勝を相手にしても5本の内2本は取れるまでになっていた。
(槍だけで千石は稼げる男だ・・・・)
と忠勝も我が子ながらに関心したのだが、何よりも忠勝を喜ばせたのは、忠朝が天性備えているその将器であった。
将器とは、翩々たる謀才や軍略の才ではなく、号令1つで人をして喜んで死地に向かわしめる天性の魅力とでも言うべきものであろう。
忠勝の見るところ、忠朝にはどうやらそれがある。
忠朝が発する低い声というのは琵琶の音のようななんとも言えぬ魅力があり、その微笑には、人を自然に惹きつけてしまうような華があった。筋骨のたくましさの割りにその挙措動作は涼やかで洗練されており、何をやってもいやらしさがない。
本多家の侍たちの話を聞いても、この若殿の評判は非常なものがあった。
なるほど兄の忠政も、評判は決して悪くない。
忠政は真面目で勤勉な上、思いやりのある心の涼やかな男で、他人に対しても えこ や贔屓がなく、侍たちの評判はむしろ良い。しかし、この男は多少 真面目過ぎるきらいがあり、たとえば下々の者が冗談を言いにくいような硬質な雰囲気を備え持っていた。本多家の世継ぎとしての使命感や義務感が、知らず知らずのうちに忠政の肩に乗っかってしまったものであろう。
しかし、次男である忠朝には、そういうところがない。
忠朝は、人懐っこく陽気な男であった。酒が好きで、気が合えば相手の身分などはお構いなしに一晩中でも飲み明かしてしまうような野放図さと安気さがあり、酔ってカッとなれば相手と殴り合いの喧嘩をする無思慮で無鉄砲なところもあったが、喧嘩が済んだ後はケロリとしたもので、翌日まで遺恨を残すようなことはなく、また陽気に酒を共にするといった類の男なのである。
たとえば、忠朝は身体を使った鍛錬を好み、ことに相撲と遠乗りを好んだのだが、あるとき本多の家中一の大力の何某という者と相撲をしたことがあった。
これは、その男の評判を聞いて忠朝自身が所望したもので、何某は相手が若殿の忠朝ということもあり、最初の勝負のときはわざと手を抜き、互角に戦って綺麗に負けてやった。
すると、忠朝は、
「お前は主にへつらう軽薄者だ! このようなときに、わしに華を持たせることが忠義だとでも思うのか!」
と烈火のごとく怒った。
頭にきた何某は、次の一番では容赦なく忠朝を投げ飛ばした。
「おのれ、もう一番じゃ!」
と、四股を踏んで再び向かっていったが、熱戦の末にやはり忠朝が負けた。
忠朝は爽やかに笑い、
「相撲ではお前はわしより遥かに強い」
といって何某を大いに褒め、しばしば酒を共にするほどの仲になった。
忠朝という男は、万事がこういう具合なのである。本多家の誰もがこの若殿と付き合うことが楽しく、気持ち良く、忠朝があるところには常に侍達の陽気な笑顔があった。
ことさら意識したことではないであろうが、忠朝は士心を得る術というものを生まれたときから体得していたらしい。
(こいつは、あるいは麒麟かもしれぬ・・・)
と、忠勝も思ったりしたが、しかしその将器が本物であるかどうかは、実際に戦場に連れていってみぬことには解らない。
忠朝にとっては不幸なことに、この頃、世は静まっていた。
秀吉は朝鮮へ二度に渡って出征していたが、徳川家はその戦陣に参加させられることはなく、忠朝が陣頭に立つチャンスもなかったのである。
大多喜では、時がただ静かに流れていった。
この忠朝が、初めて歴史の表面に顔を出すのは、19歳の秋――有名な「関ヶ原」であった。
言うまでもないかもしれないが、「関ヶ原の合戦」というのは、豊臣家の五大老筆頭 徳川家康率いる8万余の東軍と、五奉行の一人 石田三成を中心とする9万の西軍が、美濃(岐阜県)の関ヶ原という土地で激突した史上未曾有の大合戦である。




