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T-07 ハトホルの微笑

カメト王国――太陽の王朝と呼ばれる古代国家。

神託によって“最も純粋なる巫女后”を大后に選ぶ祭儀の直前、次期大后と目されていた少女が不可解な死を遂げる。喉に蛇の紋、瞳に黒曜石を嵌められたその死体は、まるで神への供物。


だが若き香油調合師メリト=ネフェルは言う。


「神ではなく、人が殺したのだ」と。


庶民出身ながら類まれな嗅覚を買われ後宮に仕え、しかもかつて大后に選ばれた異母姉を謎の死で失った彼女は、香の成分と理性を武器に真実へ迫る。

だが「神託の偽装」「姉の死の秘密」「后たちの陰謀」が次々と立ち塞がり、やがて彼女自身の血筋と存在意義が問われていく――神々の微笑の裏に潜む人の罪を暴く、幻想ミステリー。

 白い砂が、銀の匙からこぼれ落ちる。

 一粒、また一粒──乾いた音を立て、黒い香炉の窪みに沈んでいった。


 じゅ……っ。

 金属に焼かれた砂が、音を立てて蒸気を上げる。

 黄金で象られた香盤から立ち上る白煙は、神の指先のように空を撫で、細く艶やかに天幕の絹を曇らせている。


 香の名は「アク・ネブ」。

 神を迎えるために焚かれる、最も神聖な香──のはずだった。


 香の煙の中に、ひとりの若い女が姿を現す。

 静かに、迷いなく、周囲に気配を溶け込ませるように。


 調香師メリト=ネフェル。

 彼女は祭儀中に起こった異変を聞きつけて、ここを訪れたのだった。


 天蓋は高く、青金石で飾られた天井には、ラー神の太陽舟が描かれている。太陽の神が昇り、沈み、また昇る──その永遠の環に祝福された場所。ここは王の祭室、そして、神の降りる間。


 今そこに横たわっていたのは、ひとりの若き巫女の死体だった。



 巫女の名は、イセト=ハトル。

 次代の「大后」と噂されていた10代半ばの少女だ。その身に施された化粧は死してなお完璧で、唇には紅が残り、頬には神官の手で描かれた太陽紋が浮かぶ。

 だが、その喉元には異形の印。

 蛇――神殿の制裁を象徴するアポフィスの印章が、まるで焼き鏝でなぞったかのように黒ずんでいた。


 そしてその目には――

 大地の闇を磨き上げた宝石が、見開かれた瞼の奥で永遠の沈黙を宿している。


 誰の命令で、何のために、そんなことがなされたのか。語る者は誰もいない。死してなお“神の器”にされたかのように、その身体は祭壇に伏した供物のようだった。


 空気が静まり返っている。香の甘く鋭い香気が、生き物のように舌を這い、肺にまとわりつく。それは“神の香”のはずだった。

 しかし──


「違う」


 メリトは囁くように、だが確かに言った。その声は誰にも届かず、ただ香の中に吸い込まれた。

 彼女は香炉の前に立ち、瞼を閉じてもう一度鼻を利かせる。


 焦げた樹脂、乳香、ミルラ、野生のレダの根──それらは確かに“アク・ネブ”の構成だった。

 だが、その奥に微かに沈んでいる。何かが混ざっている。わずかに舌を刺すような酸、そしてか微かな金属の香り。


 メリトは、香炉の傍らにしゃがみ込んだ。

 磨かれた褐色肌に、湯に溶かした香油の光がかすかに反射する。膝丈の衣の下にしなやかな肢体を包み、その肩には調合師の小さな銅印――

嗅ぐ者(ネフ・カメシ)】の刻印が見える。

 細い指先には調合師特有の染みが残り、耳元には古い香木で作った飾りがひとつ、鈍く揺れていた。


「……やはり。これは“神香”じゃない」


 その刹那、背後で衣の擦れる音。


「言葉に気をつけろ、メリト=ネフェル」


 静かに、だが確かな重みをもって、一人の男が現れた。肩に蛇革の帯をかけ、胸には銀の印章。

 ベケンメス――後宮警吏長。神殿に属する監察官。


 その顔は硬質な彫像のようで、琥珀のような瞳には火の色を映さない。


「“神香”ではないなどと調合師ごときが言えば、それは“神の裁きに疑念を抱く”ということだ。――口を慎め」


 メリトはゆっくりと立ち上がった。香煙の中で、その輪郭が揺れる。

 細身の体に張り付く布衣、額にかかる編み込んだ黒髪、冷えた瞳だけが、ただ燃えていた。


「香は真実を封じる器です。決して偽りません。神が沈黙するなら、その沈黙の奥を──香に問いかけるしかありません」


 ベケンメスは眉ひとつ動かさない。

 ただ床に伏した巫女の亡骸に目をやると、黒曜石の目を持つその少女に、布をかけなおす。その所作には、不思議な丁寧さがあった。


「お前の姉も香を嗅いで、神を疑った」


 メリトの胸がわずかに跳ねた。


「――アシェトのことを、知っているんですね」

「知ってはならぬことを知った者は、神のもとに召される」

「それは“殺された”ということですか?」


 ベケンメスは沈黙する。その目は何かを押し殺しながら、彼女を見つめていた。

 やがて一言だけ、静かに告げる。


「死人の香は、二度と燃やすな」


 男は煙の中に姿を溶かすように、背を向けて去っていった。


 メリトの心の内で五年前の記憶が、香とともに甦る。


 ――姉、アシェト=ネフェル。

「星の巫女」と呼ばれた才媛。神に選ばれ、大后に近づいた女。


 祭儀の夜、神託の儀式の中で倒れ、そのまま命を絶った。喉に浮かんだ、蛇の紋。

 その死は「神に吸い上げられた」とされ、誰も何も、語ろうとしなかった。その時も彼女は気づいていた。

 何かが違う、と。



 *




 夜の帳が落ちてから、王宮は息を潜める。


 だが、沈黙の奥にはいつも声がある。

 壁に染みついた詠唱、廊に漂う祈り、石のひび割れに棲む囁き。

 香と同じだ。目に見えず、故に気づく者は少ない──けれど、確かに存在する。


 メリトは手灯の火を掲げ、地下の書庫へと続く階を下りていた。


 祭室と後宮をつなぐ裏の階段。香材の保管庫と繋がるこの場所には、記録係すら寄りつくことはない。


(姉の記録が残っているとしたら、ここしかない)


 神殿に納められた祭儀記録の控え、香の配合と名の写本──それらは通常、司祭以上の階位でしか閲覧できない。

 姉、アシェト=ネフェルが正式な巫女であった以上、彼女の配香記録もここに残っているはずだった。


 姉が遺した鍵を使い錠を開ける。扉を押すと、重く軋む音がした。

 冷えた空気。何百という巻物と香料の板が、整然と並ぶ。灯火が揺れ、青銅の棚が影を引く。


 メリトは手袋をした指で丁寧に巻物を手繰る。

 香名の目録をたどり、「アク・ネブ」の項を探す。


 ──そこに、不自然な空白があった。


(……削られている?)


 薄い羊皮紙の列に、ぽっかりと欠けた一枚。日付と調香師の名が記されていたはずの箇所だけが、丁寧に破られていた。


 だが、メリトは見逃さなかった。帳簿の余白に残った、ひと文字。


「アシェ──」


 姉の名の痕跡。


「やっぱり……ここに、何かあった」


 誰かが、意図的に記録を消している。

 神に焚かれたはずの香の調合記録──それがなければ、誰も真相にたどり着けない。


(姉さん……!)


 メリトは急いで王宮内の自室に引き返そうとした。が、書庫から出て幾分も経たぬうちに不意に背後から名を呼ばれた。


「……メリト様」


 彼女の心臓が一度跳ねる。書庫へ忍び入ったことが知られたのだろうか?

 しかし振り返ると、立っていたのは白衣の女だった。装束は神官のものではなく、外科を司る“肉の巫女(ウアブ・セテシュ)”。――

 死者の身体に触れることを許された数少ない一族の末裔、ネム。彼女はいつも通り控えめな顔をしていたが、その指先が震えていた。

 メリトは眉をひそめた。


「ネム? どうしたの、あなたがこんな時間に」


 ネムは答えず、ただ一歩、メリトに近づいた。その白衣の袖に隠した手が、かすかに震えている。

 普段の沈着さからは想像できない、不自然な動揺。


「何があったの?」

「……先ほど、イセト様の遺体に再び触れる機会がありました」


 その言葉に、メリトの胸がざわつく。


「再検死……?」


 ネムは深く頷くと、ためらいがちに口を開いた。


「気になることがあって……わたしの独断です。でも、どうしても検死官の前では言い出せなくて……」


 彼女はそっと腰の布包みを取り出した。香布に丁寧にくるまれている。

 メリトが受け取ると、わずかに鉄と香の混ざった匂いが鼻先をかすめた。

 開くとそこにあったのは――

 焼け焦げた香木の破片。そして、小さな骨の一部。


「……これは?」

「胸骨の下に埋められていました。遺体の中に、意図的に入れられたものです。どんな祭儀でもこんなことは……普通は絶対に、あり得ません」


 ネムの目が、僅かに潤んでいる。


「しかもこの骨、イセト様のものではありません。もっと古いもの。断面の浸潤から見て、数年前に死亡した別人の骨です。推測ですが、“星の巫女”ではないかと……」

「アシェト……!」


 言葉が喉から漏れた瞬間、メリトの心臓が冷たい手で掴まれたように跳ねた。ネムは震える唇で言った。


「これは“星の巫女”アシェト様の妹であるあなたにしか渡せません。でも気をつけてください。今の王宮では、良くないものが蠢いている」

「何があろうと解き明かすわ。そのために厳しい神託選抜(ナメフ・サティ)を抜けて王妃様の技女(カトレ)になったのだから」


 メリトは確かな決意をもって告げるが、ネムの顔から不安は消えなかった。


「わたしはウアブ・セテシュとして、この目で見たもののみを信じます。ですが、神官が神意とした事を覆すことは不可能。場合によっては王宮自体を敵に回すことになりますが、何かお考えがあるのでしょうか……」


「──ひとつだけ知っているわ。“神の香”によく似た、幻の香を」

「幻の香?」

「ええ。調合師の私ですら調合方法を知らない──何者かの手で巧妙に隠蔽されている。姉はそれを知っていた」


(“神の香”の中に偽りがある。ならば、それを暴くために私は香を焚く)


 王宮そのものが香煙の向こうに立ちはだかろうとも。


「知る限り、その香が調合されたのは二度だけ。今朝の祭儀と──5年前」

「その香の名は?」

「──ハトホルの微笑ネフェル・エン・フトゥ・ホル


 メリトがそう口にした時、突然廊下に大勢の足音が木霊し、二人はたちまち数十名の兵士に囲まれた。


「メリト=ネフェル。貴様をイセト=ハトル殺害の容疑で拘束する!」


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