T-01 吸血鬼のお姫さまは、僕と【結婚の約束】をしていたらしい?
一人寂しい暮らしをしている高校生・中村瑞樹のもとに、突如として異世界から押しかけてきた吸血鬼の姫・ルチル。
彼女は、ミズキが異世界にいた頃、『結婚の約束』をしたのだという。しかし、当のミズキには異世界に行った記憶もなければ、ルチルの顔を見るのもこれが初めてのことだった。
……これでは結婚の約束は果たせなくなり、せっかく用意してきた婚姻儀礼の準備も、念願の吸血も、花嫁修行の成果もお披露目できそうにない!
心の底から悲しむルチル。その姿に罪悪感を覚えたミズキは、もう一度馴れ初め合うための『同棲』を提案し、二人の現代日本を舞台にしたラブコメディは幕を開けることになる。
果たしてルチルの想いは、何も覚えていない少年の孤独な心に響く日が来るのだろうか――?
その日、学校から帰ってきた僕は、目の前の光景を受け止めきれないでいた。
リビングでは、まるで見覚えのない金髪の女の子が、何やら嬉しそうにダンスを踊っている。
「〜〜〜っ成功! 成功成功成功っ! 成功だわっ!」
いったいなんの話だろう?
少女は赤ずきんのようなドレスとケープを身に纏い、腰からはコウモリのような羽を生やし、髪型をハーフアップツインテールに結って可憐に着飾る。
泥棒ではない……と思うんだけど。
「私、ちゃんと来れたみたい!」
「おめでとうゴシュジン! 天才だっぷ!」
「ふふーん! マルシマの支えがあってこそよ!」
しかも、少女が抱えている謎の白い毛玉は、可愛らしい声で流暢に喋っていた。
僕はますます訳が分からなくなる……。
呆然とする僕の手から、学生鞄がドサリと落ちる。
毛玉を抱えたまま振り返った少女は、僕の顔を見て、ぱあっと花が咲くような笑顔を浮かべた。
「ミズキ!」
「え?」
それは確かに僕の名前だった。
「あの日の結婚の約束、果たしに来たのだわ!」
「……!?」
彼女は勢いよく立ち上がると、僕に思いきり顔を近付ける。
間近に迫るその瞳は、まるで夜空を映したような紫紺色に、ちらちらと星屑のような輝きを浮かべていた。
僕の心臓がドクンと跳ねる。
「えぇと、結婚の約束って、なに?」
そう問えば、彼女の表情はぴしりと凍り付いた。
嘘みたいに静まり返るリビングに、困惑する家主の僕と、初対面の女の子と、謎の喋る毛玉。
いったい、何が起きているのだろうか……。
♢
時は少し遡る。
僕の名前は中村瑞樹。本来だったらどこにでもいる普通の高校一年生のつもり……だったんだけど。
僕の平穏な日常は、つい二ヶ月前に崩れ去った。
放課後の教室。帰り支度をしていると、クラスメイトの楽しげな会話が聞こえてくる。
「――もうこの世でモテるなんて無理だ! 俺は異世界へ行く!」
「帰ってこれるならいいけど、一生異世界暮らしは苦労すると思うぞ?」
「た、確かに……じゃあ行って帰ってこよう。え、異世界の記憶って持ち帰れるよな??」
以前の僕なら、そんな会話にも混ざっていたかもね。
「帰ってくることを見越すなら、事故って死んで転生だけは絶対に嫌だなー」
「おいバカお前」
「あっワリっ」
クラスメイトの一人が、青ざめた顔でこちらを見てくる。
あぁ、また変に気を遣わせちゃったみたいだ。
――四月に起きた、航空機事故。
両親を失った僕は、天涯孤独だった。残されたのはこの寒々しい一軒家と、僅かな遺産のみ。あとは自分一人の力で、この先の人生を生きていかなければならない。
学校では、入学日に担任の先生を通じて僕の境遇がクラス中に共有された。同世代に気を遣われる現状は、余計に僕の孤独に拍車を掛ける。
「わ、悪いな中村。こいつも悪気はないんだ」
「大丈夫、気にしてない」
荷物をまとめて教室を出る。すると背後では止まっていた談笑が再開される。胸の奥に、今日もまた濁った何かが溜まっていく。
寄り道もせずに帰宅した。
鍵の締まった玄関扉の前。今朝と同じように鍵を取り出すと、僕はある異変に気が付く。
「え、嘘でしょ……」
いつも大切に持ち歩いていたはずの、母の形見のストラップが無い。
それはどれだけ鞄をひっくり返しても、辺りを見渡しても見つからなくて。
僕の気持ちはどん底まで落ち込む。
……だからこそ。
「〜〜〜っ成功! 成功成功成功っ! 成功だわっ!」
唐突に姿を現した謎の女の子と白い毛玉は、僕の失意と絶望を吹き飛ばすほどの破壊力を持っていた。
♢
とりあえず、状況を整理しよう。
僕がテーブルに着くと、向かいに座っている少女は何か言いたげな顔で僕を見つめる。
さて、どうしたものか。
「え、と。飲み物は紅茶とかどうかな?」
「いらない」
とりつく島もない……。どうやら僕の最初のリアクションは、彼女にとって間違いだったみたいだ。
「ゴシュジンはコンヤクシャの血を飲みに来たぷ!」
「ちょっと言わないで!?」
「えっ血!?」
僕が困惑していると、「今のは聞かなかったことにして!!」と彼女は顔を真っ赤にする。
ううーん……何がなんだか分からない……。
「ごめんね。結婚の約束だとか、その……今の話とか。僕にはなんのことやらさっぱりで」
「………」
「君はいったい誰なのかな」
慎重に問いかけると、彼女は今にも泣き出しそうな顔をして言った。
「本当に、何も覚えていないの?」
「うん。多分、人違いなんじゃないかなって」
僕がそんな意見を言えば、我慢ならなかったのか、彼女はガタリと席を立った。
「人違いなんかじゃないわ! 私はルチル! あなたはミズキ・ナカムラ! そうでしょ!?」
「確かに僕は中村瑞樹だけど……」
「私と結婚してくれるって言ったじゃない!」
「そんな記憶はなくて……」
あまりの気迫に目を逸らす。「本当に知らないって言うワケ!?」と、彼女は綺麗な瞳にたくさんの涙を堪えながら訴えた。
「ルチルっていう、お名前なんだね」
「っ……!」
僕が苦し紛れにそう返せば、ルチルは打ちひしがれた様子でへろへろと着席する。そこで、彼女のそばにいた白い毛玉はこちらに目をつけ、力強く前に進み出た。
「ゴシュジンを悲しませた! サイテーだ!」
「ええっ」
テーブルの上をぽむぽむと弾みながら、力いっぱいの抗議だった。
「ひどいヤツ! これがコンヤクシャなんて信じられない! ゴシュジンがいつも楽しそうに話すコンヤクシャがどんな人なのかと思えば、ゴシュジンのことを傷つけるなんて!」
「マルシマ! 勝手なこと言わないで!」
ルチルが窘めようとするけど、マルシマの怒りはなかなか収まりそうにない。
と、とりあえず話を聞いてみようか。
「えっと……。マルシマは、僕と会うのは初めて?」
「うゅ! マルシマは行き倒れてどうしょうもない所を、吸血鬼であるゴシュジンの眷属にしてもらって、救われたんだっぷ! ゴシュジンはいつも言ってたっぷ!」
き、吸血鬼……。
マルシマは胸を張るように、テーブルの上でポンと跳ねる。
「『これはミズキにやってもらった分のお返し。だからマルシマも次の誰かにしてあげて』って!」
「そ、それは……え……」
「マルシマはゴシュジンに救ってもらったけど、ゴシュジンが言うにはそれもコンヤクシャのおかげ。だからマルシマも、今日出会えるコンヤクシャにはとってもとっても期待してたのに――」
なんか気まずいんだけど……。
「それが、捨てた女のことなんか覚えてない? 正真正銘のクズ男だっぷ!!」
「こら! マルシマ!」
「うゅぅ……だってぇ……」
ルチルがピシャリと叱りつけると、マルシマは反省した様子で彼女の懐に戻った。
それから一呼吸を挟み、今度のルチルは、縋るような目で僕を見る。
「……本当の本当に、何も知らないの?」
「うん。僕は何も」
「私がどれほどミズキのことを愛しているのかも?」
澱みなくそんなことを言われて、身に覚えはなかったことのはずなのに、僕の胸にはトゲのある罪悪感が広がっていった。
「……うん」
「向こうでのことは何一つ?」
「””向こう””?」
僕が尋ね返すと、彼女は力なく説明を始めた。
「私はこことは違う世界から来たわ。かつてミズキが私の世界に来たように、私はミズキともう一度会うためだけに、ここへ」
「………」
「向こうの世界ではね、私、吸血鬼だから迫害されていたんだけど……。死にかけだった私に、貴方だけが手を差し伸べてくれた。貴方だけが、家族のように優しくしてくれたの」
にわかには信じられない話だけど。
彼女の言葉は真に迫っていて、とても嘘だとは思えない。
「三百と七年前の話だわ」
「さっ、さんびゃくとななねん!?」
いくら吸血鬼とは言っても、こんな小柄な女の子が、本当に三百年以上……?
僕が驚いていると、彼女は弱々しく笑って、鋭い八重歯をちらりと覗かせる。
「私ね、ミズキとの約束だけが生きる全てだったの」
そう語る彼女の声は震えていた。
「ミズキが元の世界に帰るのは、避けられない出来事だった。でも今生のお別れなんて絶対に嫌で、だから私は『もう一度会いに行く。その時には大人になってるから結婚して』ってミズキにお願いしたの」
「………」
「ミズキは、『約束する』って私に言ってくれたわ」
俯いていたルチルは顔を上げ、ポロポロと大粒の涙を零しながら、僕をまっすぐに見つめる。
「どうして忘れちゃってるのよ、ばかぁっ……」
僕は胸が痛くなった。
でも、本当に何も知らないんだ。異世界も、結婚の約束も。両親が他界してからはずっと忙しかったし、異世界に行っていられる時間はなかったはずだ。
「ルチル、一つだけ質問していい?」
「……うん」
「何か、僕との関係を表す""証拠""ってないかな。僕も、君のことを信じたくて」
すると、はっと思いついた様子の彼女は、ポケットから何かを取り出した。
「っ、これはどう!? ミズキがね、最後に私にくれたの! 三百年前だから、もう、随分とボロボロになっちゃったけど……!」
その差し出された物品を見て、僕は言葉を失った。
――母の形見のストラップ。
それは彼女の言葉通り、ずいぶん古ぼけてしまっていたけれど、大切にしてくれたのが伝わる。てっきり、無くしたと思っていたのに。





