エル・ミラージュの崩落 シンチェーロ
数日前の事だった。
絢爛豪華に贅沢の限りを尽くした部屋で、二人の男が対峙していた。
一人は浅黒い肌に小太りの人間。彼は部屋の隅でいすくんで、地面に腰を下ろしていた。
その男をコートを羽織った髭面の精悍な魔王が見下ろしていた。
「配下達の調査によると、エル・ミラージュの王子ステンノー。エル・ミラージュの王女アネモネの二人を我々は敵に回した」
ヒルフェは無情な処刑人のように、人間のマフィアの王シンチェーロのもとへと訪れた。
「こ、このわしには、何名もの嫁も子供も孫もいる。ファミリーを形成している。敵対している連中が本気になれば、わしの家族達を守る事が出来なくなるかもしれないっ!」
シンチェーロは焦りに焦っていた。
「家族が大切ならそんな職業になんて就くんじゃなかったな」
ヒルフェはまるで死刑宣告人のように、シンチェーロに告げる。
「う、う、煩い! 魔族風情が貴様にわしの何が分かるっ!」
「知らんよ。私は私のやるべき事を為すべきだ」
ヒルフェは冷淡な顔で、裏社会の人間のボスを眺めていた。
「魔王ヒルフェよ。嫁や子、孫を想う夫、親の気持ちが分からないのか……?」
「すまんな。私はそういう感情を持ち合わせていない」
ヒルフェは興味無さそうな顔をしていた。
「ステンノーもベドラムも家族、家族と煩わしい事を言い始めている。魔王として嘆かわしい事だ。サンテの動向も良くない。サンテでさえ変わりつつある。本当に嘆かわしい。少しはジュスティスやソレイユを見習って貰いたいものだ」
陰謀の魔王は、極めて冷徹な事を口にする。
「やはり……魔族には、人間の気持ちは分からないのかっ!」
シンチェーロは発狂するように叫んだ。
「知らんよ」
陰謀の魔王は冷たい声音で告げた。
「シンチェーロ。人間だとか魔族だとか関係が無い。貴様はマフィアだろう? マフィアは社会の裏を牛耳る犯罪組織であり、表社会に生きる者達の捕食者だ。貴様はマフィアの偉い地位にいる。マフィアとしての性根を見せてみろ」
ヒルフェは冷たく言い放った。
「貴様はこの社会でそれだけの事をしてきた。貴様の家族共も貴様の贅沢の汁を啜ってきた。どれだけの者達を踏み躙り生きてきたのか。貴様と敵対する者はこのような言葉で咎めるだろうな」
ヒルフェはそう言うと、扉を閉めた。
シンチェーロの泣き言には何の興味も無かった。
そして、このやり事の数日後の事だった。
アネモネと、彼女の抱えた弓使いのエルフによって、シンチェーロは家宅内で強襲された。
†
アネモネは死刑執行官のように、シンチェーロを見下ろしていた。
大国の王女は、王女という肩書とはまるで印象が違い、ただただ無慈悲に標的を始末するだけの殺人マシーンのように見えた。
シンチェーロは何とかして、命乞いの言葉を探していた。
この眼をしたものは、何を言っても聞かない事は分かっていた…………。
「私の仕事は王女である事以外にも、拷問官と暗殺者の仕事をしております。標的には必ず拷問を行いますわ。私の趣味も兼ねているけど、実利的な意味も強い。恐怖による支配が国家をより強固にする。私もエル・ミラージュの王族の血筋として、残酷を欲し、残酷をひけらかす欲望が渦巻いている。なので、シンチェーロ。拷問が趣味なのは、マフィアだけだとは思わないで欲しいですわ」
アネモネは懐からナイフを取り出して、這いつくばるシンチェーロへと近寄ってきた。
まるで、そよ風のように彼女は、シンチェーロの部屋に現れ、暴虐な嵐のように牙を剥けてきたのだった。
「生きながら皮を剥がしたり、臓器を弄ったりするのも最高なのですが。今の私の趣味は、独房に囚人を入れて血を流さずに発狂させる事も面白いと思っておりますわ。人間は視覚聴覚を遮断され、他者とのコミュニケーションを封じられれば、数週間でどんな人間も廃人になる。とても興味深いですわね」
アネモネは両手の刃で、次々とシンチェーロの部下達を斬り付けていく。
彼らは血反吐を吐きながら、のたうち回っていた。
刃には、死なない程度に苦しむ毒が塗られている。
吐き気と脱水症状でまともに動けずに数日間、のたうち回るだろう。
「貴方の部下は生かしますか。私の、エル・ミラージュの恐怖を教える為に。我が国は、この毒刃のアネモネがいる事を教える為に」
しゃり、しゃり、と、ナイフがこすれ合う音が聞こえる。
「頼む…………、わしには家族が沢山いるんだ。わしが死んだら、わしを恨んでいる者達から、対立するマフィア達から、妻や娘が、性的に暴行されるっ。挙句の果てにわしの家族は皆殺しにされる…………っ!」
シンチェーロは恐怖と絶望の涙を流していた。
「それは後味が悪いですわね。では、我がエル・ミラージュ国は、貴方の血縁の者達を安全な場所に保護しましょうか。幸い、貴方のご家族は人間であり、忌むべき吸血鬼ではありませんし。エル・ミラージュはその点では寛大なのですわよ」
マフィアの抗争において、負けた側の家族は無惨に凌辱される。
アネモネはその事を知っている。
ダーシャの説得もあって、元々、アネモネはシンチェーロの家族達を保護し、エル・ミラージュに亡命させるつもりでいた。
だが、この弱者から巻き上げた金で、肥え太った浅黒い肌の黒豚は、家族の事も命乞いの道具としか思っていない。アネモネはそれを見透かしていた。
「この私はお兄様の為に、どれだけの者を殺す覚悟も、エル・ミラージュの為に死ぬ覚悟も出来ている。シンチェーロ。貴方ごときに私は殺せない」
毒刃のアネモネの刃は、シンチェーロの脇腹を浅く切り付けただけだった。
シンチェーロは全身から汗を流していく。
「なにを……………、わしに何をした……………」
「さあ? 複数の毒草から調合したものを刃に塗り付けただけですわ」
アネモネは不気味に笑っていた。
「わしは、どうなる…………?」
シンチェーロは脂汗をかいていた。
「何時間ものたうち回った後、苦しんで、死にます」
アネモネは嬉しそうな顔をする。
「我らエル・ミラージュの偉大なる栄光の為に死ね。苦しんで死になさいよ」
アネモネはシンチェーロの顔面をぐりぐりと踏み付けていく。
ブーツの裏側には暗器が仕込まれており、シンチェーロの顔面の皮膚をズタズタに削り取っていく。太った赤黒い肌の男の顔面から血が垂れ流れていく。
シンチェーロは必死でアネモネの脚を振りほどき、のたうち回りながら部屋の外へと出た。
何本もの矢が彼の胸や腹部へと突き刺さっていく。
マフィアの王は、絶叫し、悲鳴を上げていた。
「腕がいいわね。うちの近衛兵にならない? 銃の撃ち方を教えてあげるわ」
アネモネは笑う。
「ならねーよ。しかし、こいつ、まだ生きてやがる。やっぱ肥え太った豚ってのはしぶといもんだな」
物陰に隠れていたダーシャは、不快そうな顔で這いつくばって呻き声をあげるシンチェーロを見下ろしていた。
「貴様ら、許さん…………。許さんぞ…………、このわしは、裏社会の王なのだ。このわしに逆らって…………………」
憎悪の瞳で、血と涎を口から垂らしながら、シンチェーロは二人を睨み付けていた。
「はあ? 私は大国の王女なのだけど?」
「俺だって小国の王女の側近だ。自分だけ偉い身分だと思うなよ、小物が」
シンチェーロは全身、汗だくになりながら這いつくばっていく。
生き意地が汚く、諦めが悪い男だった。
「あんたらがいるから。エル・ミラージュの福祉は脅かされる。あんたらマフィアがドラッグを売りさばき、孤児院も兼ねている教会の利権に手を出したせいで餓死する子どもが出る。マスカレイドが超格差社会になった責任を全部、我が国に押し付けやがってっ! 死ねよ、吐き気がする豚が」
アネモネは大量の暗器を取り出していた。
残虐な拷問用の道具だ。
彼女はこれらの道具によって、標的の身体のパーツを削ぎながら苦しめて殺害してきた。
ぴゅん、と、弓が鳴る。
シンチェーロの額を、矢が撃ち抜く。
シンチェーロは何が起こったのか分からないみたいだった。
だが、しばらくの間、びくびくと痙攣して意識はあったみたいだった。
彼は血反吐を吐きながら、哀願の声を上げようとして、倒れ、そのまま絶命したみたいだった。
「悪い。拷問して殺すのは俺の趣味じゃねぇんだわ」
ダーシャは、弓矢をしまう。
「優しいのね」
アネモネも暗器をしまう。
「油断して何か奥の手があったら困るから早急に始末しただけだよ、合理的な判断をしただけだ。後はヒルフェだけだな。しかし、この豚が死ねば、少しはマスカレイドは良くなるだろ」
「私は後継者となるマフィア達も、あらかた始末してくるわ。……ああ、でも時間が足りるかしら? ヒルフェを始末した後ね」
アネモネはすぐに次の手を打とうとしているみたいだった。
「好きにしろ。それにしても、俺はスカッとしたわ」
ダーシャはそう言うが、淡々とした抑揚の無い声音だった。
「じゃあ。後ほど、合流ね。ロゼッタ王女様と海の魔王も向かっているのよね? 私はヒルフェと落ち合う予定を組んでいる。さて、これから本命のヒルフェの始末に向かうわよ」
アネモネは少し高揚しているみたいだった。
「ああ。全員、ヒルフェに相当な憎悪、敵意、殺意を持っている。奴を確実に仕留めるぞ」




