エル・ミラージュの崩落 暗黒の海溝。
暗黒の海溝。
魔王サンテの領海であり、世界中の海と繋がっている闇の浜辺。
この辺りの海の深さは数万メートルにも達する。闇の暗部へと繋がっている。
海の上は、所々は岩々に閉じ込められ、闇が差し込み、砂浜には海洋生物の残骸が転がっていた。
イリシュは立会人として、この場所に連れてこられた。
「女ばっかだな。臭ぇわ。ホント、ゲロ臭ぇ、胃酸の臭いみてぇー」
ボロボロのセーラー服を纏い、青み掛かった真っ黒な髪を振り乱す不気味な女。魔王サンテが集まった者達を見下ろしていた。
「一応。男いるか。エルフのガキかよ。頼りねぇーな」
サンテは色取り取りのフルーツ味の飴玉をガリガリ噛み砕きながら、集まったメンバーを眺めていた。
エルフの青年であるダーシャ。
ジャベリンの王女であるロゼッタ。
ステンノーの妹でありエル・ミラージュの王女であるアネモネ。
みな、各々、別々の岩々に登りながら互いを牽制し合っていた。
立会人であるイリシュを除く四名は、ある一つの目的の為に此処に集められていた。
「本当に“停戦協定”なんて結ぶつもりなの? 一体、貴方達は何を考えているの?」
ロゼッタは、サンテとアネモネを交互に見る。
「今やエル・ミラージュは魔王ヒルフェの財布にされている。この戦争で私達の国は何の得もしていない。お兄様は外せないから、私が来ましたわ」
アネモネは溜め息を付いた。
「信用出来ないわね。アネモネって言ったっけ? 貴方の言葉はステンノーの言葉という解釈で本当に大丈夫なの?」
ロゼッタは首を傾げる。
「敵国同士の上層部の密談は人類史上、当たり前に行われていますわ。ロゼッタ王女、もう少し会話が通じると思ったのですが」
アネモネは両手を広げて気取った仕草をする。
「悪い。私、外交とか頭悪くて出来ないから」
ロゼッタは頭皮をぽりぽりと掻いた。
「じゃあお馬鹿さんにも分かるように教えてあげる。我が国がジャベリンに医療制度の支援をしてあげる。その代わりエル・ミラージュの国土に群がるウジ虫共。マスカレイドのマフィア共の殲滅に協力して欲しい」
「戦争は外交の延長ってわけね。マスカレイドの裏社会は私も大嫌いだから、別にそれは構わないけど」
ロゼッタは笑う。
「おい。そこのエルフ」
サンテは海洋生物の触手をうねらせながら、一番高い位置にある岩の上からダーシャを見下ろしていた。
「なんだ?」
「あたしはヒルフェが気にいらねぇー。お前は?」
「同じだ。不快極まりない奴だよ」
ダーシャは吐き捨てるように言う。
「あいつは多分、魔王の中で一番強い可能性がある。あたしやベドラムよりも」
それを聞いて、ダーシャの顔は引き攣った表情を浮かべた。
「ジュスティスやリベルタスよりも?」
ロゼッタは胡乱げに訊ねる。
「サンテ。貴方の物量ならどうにでもなるでしょ?」
アネモネは首を傾げた。
「買い被り過ぎだ。あいつは『固有魔法』の他に切り札を隠してやがる。ふざけたクソ野郎だ。あたしの固有魔法『ヴァンダリズム』は、海を通して海の魔物を操るが、これはよく知られている。奴の固有魔法は未だに誰も分かっていない」
サンテは腹立たしそうな顔をしていた。
「ちょっと勝手に話を進めているけれど」
ロゼッタは不愉快そうに、サンテとアネモネを睨み付ける。
「魔王サンテ。貴方のせいで海上都市スカイオルムの人間が沢山死んだ。アネモネ、貴方達のエル・ミラージュの侵攻軍のせいで、私達の側の兵士に志願した人間が沢山死んだ。一般市民も大量に死んだ。核を落とされた場所は今も地獄の炎に焼かれ続けている。正直、今、此処で貴方達二人と、私一人で戦ってもいいんだけど?」
ロゼッタは相変わらず、剣呑な口調だった。
たとえ、相手が誰であり、どれ程、力量に差があったとしても。
何処までも彼女は自分の道理を貫き通そうとしていた。
ロゼッタは杖から、自身の『固有魔法』である『アクアリウム』を攻撃に転換させて撃ち込もうと画策しているみたいだった。
「おい。エルフ。なんで、この馬鹿王女、政治交渉何も知らねぇーんだ? このあたしが直々に来てやってるのによおぉー」
サンテは海溝内に潜んでいる怪物達に支持を送ろうとする。
「あたしも政治交渉なんて、ダルいし、本当はごめんだ。何なら、今、此処で海水をたっぷり飲ませて、サメの餌にしてやってもいいんだぜ…………」
「いいわね。貴方がどれだけ強いのか分からないけど、私は戦う」
ロゼッタは何処までも無謀だった。
「ジャベリンの王女。あたしが何の為に魔王をやっているか教えてやろうか?」
「何?」
「あたしの不幸を一人でも多くの連中に振りまく為だよ。あたしはこの世界に生まれ落ちてから地獄を生きてきた。あたしの苦しみと不幸を少しでも分けてやる。ただ、その為に生きている。他人への憎しみが、あたしの生きる意味になる。他人の苦しみが、あたしの苦しみを和らげるんだ! このあたしは全ての人間を憎んでいる、生まれ落ちたこの世界を呪っているんだ!」
サンテはいきなり叫ぶ。
それは地の底の怨念のような声だった。
「最悪ね。他人を憎しみでしか見られないのなら、自分一人で死んでよ」
ロゼッタは蔑むように毒を吐く。
彼女は天性の毒舌家だった。
相手がどれだけ力量が格上であれ、息を吐くように、他人に毒を吐き散らす。
「やっぱ。あんたはベドラムと似ていて腹が立つ。このあたしを見下しやがって…………………」
「軽蔑しているだけなんだけど?」
ロゼッタとサンテは、かなり険悪な空気を醸し出していた。
このような事態を想定して、イリシュは連れてこられた。
イリシュにとっての救いがエートルであったように。
サンテにとっての救いがシトレーだった。
運命は残酷で、ジュスティスもヒルフェも関係無く、エートルもシトレーも何処かで、すぐに死んでいただろうと、かつてロゼッタはイリシュに向かって言った。それがどうにも悔しい。
ただ。今は一つの目的の為に協定を結びたい。
ついこの前も、アネモネが、旅の仲間でありイリシュ達と親しかったミレーヌを惨殺した。イリシュはそれも生涯忘れないだろう。だが、イリシュのこの場での態度は…………。
聖女として、頑なに振舞う事。
「みなさん、やめてくださいっ! 私達がいがみ合えば、魔王ヒルフェの思うツボになりますよっ!」
イリシュは精一杯に叫んだ。
その言葉を聞いて、ロゼッタもサンテも、あっさりと矛を収めた。
「……どうせダーシャと二人掛かりでベドラムに手も足も出なかったし。私は空中要塞のせいで、この戦争に巻き込まれた。ジャベリンは空中要塞の従属国、付庸国だった。空中要塞からの支配を抜け出さなければならない。サンテ、アネモネ。ヒルフェを倒す事によって、ジャベリンが潤うなら、少しでも空中要塞の脅威を抑えられるなら、私も力になるわ」
ロゼッタは即座に思考を切り替えたみたいだった。
「賢い判断ですわね。お互いの国の利益の為に動きましょう」
アネモネは頷く。
「ムカつく野郎を、ブチ殺せれば異存ねぇーからな。あたしが一番、ムカついてんのは、ヒルフェなんだわ。奴の断末魔が聞きてぇからなぁー」
サンテも頷く。
「じゃあ。それじゃあ、これから、みなで作戦を練り上げましょう」
ロゼッタは言う。
「おいおいおいおいっ! それ、俺も混ぜてくれよーっ!」
洞窟の奥から現れたのは、マスカレイドの軽薄な王子、オリヴィだった。
険悪な空気が漂っていた中で、彼の軽薄極まりない口調と態度は、女三名の殺意を緩ませた。
「おいクソガキ。きたねー髪色してるな。あたしの憂さ晴らしの足引っ張るんじゃねーぞ」
サンテは言う。
「エル・ミラージュの栄光の為に、男を見せてください。貴方の命を代償として」
アネモネはからかうようにオリヴィに告げる。
「おい馬鹿王子。ジャベリンの未来と繁栄の為に義理を果たしてよね?」
ロゼッタは嫌味口調で告げた。
「おおおっ! おおおおっ! 俺、女の子達にモテモテ? 嬉しいなあ、なんか頼りにされている感じがするなあっ! よしっ! 戦では、俺の男らしさを発揮させて貰うぜっ! 今から燃えてきたなっ!」
オリヴィは本当に馬鹿みたいな反応を示した。
勢いよく右拳で、自らの胸を叩いて頼れる男である事を誇示したがっているみたいだった。
沈黙を貫いていたダーシャは心底、この馬鹿王子を蔑んだ眼で見ていた。
イリシュは、シルクロードまで彼を助けに行った事が正しかった事なのか、心の底から自身を問い詰めた。
そして、それからヒルフェ討伐の為の作戦会議が始まる。
大体、オリヴィのろくでもない発言のせいで、話の方向が紆余曲折していったが、何とかプランはまとまった。
アネモネの情報では、今、ヒルフェはマスカレイドにいる。
人間のマフィアの王であるシンチェーロ共々、始末するのが五人の目的となった。




