間章 ディザレシーと画家。
「お前が訊ねてきたのは何年ぶりかな」
もうすぐ半世紀を生きようとしている画家は、黒いコートに黒髪の青年の姿を一瞥すると、すぐにキャンバスに筆を塗る作業に戻っていた。
「二年ぶりくらいかな。もうボケたか」
青年はふうっ、と訊ねる。
「お前の師匠の墓参りをしてきた。人間、七十年も生きれば充分だろう。脳梗塞だったんだってな」
「師は死ぬ前まで、お前達、魔族を憎んでいた。家族がオーガに殺されたからな」
画家は淡々と告げる。
「俺はドラゴンなんだがなあ。何で、見ず知らずの人喰い鬼の所業を俺のせいにされないといけねぇんだよ」
青年は、アトリエの中に飾られている絵画の一枚一枚に熱心に魅入っていた。
「師は古い人間だった。わしも若い頃は魔族の軍勢を打ち倒そうと、騎士団や魔法学院に憧れたものだ」
画家は、絵の具を混ぜ合わせていた。
描かれていたのは、天空に沢山のドラゴンの群れが飛び交い、騎士達が悲惨にもドラゴンの業火で焼かれ苦しんでいる姿だった。だが、一人の女騎士だけは最後まで希望を捨てずに魔法の光を帯びた剣を構えている。
「お前と会ったのは、もう三十年程前になるのか。懐かしいな。お前の師匠は画家であり、戦士だった。当時の俺は興味を持ったものだ」
三十年程前の事だった。
この田舎の村に、巨大な黒竜が舞い降りた。
人々は悲鳴を上げ、村が抱えている魔法使いや戦士達を集めて、黒竜に立ち向かった。
黒竜は彼を討伐しに集まった者達に目もくれず、ただ、この村のアトリエを訊ねたいと人語を話した。
当時、モンスター達との戦いで重傷を負い、騎士団を退役後、静かに画家としての道を歩んでいた四十路過ぎの男は、杖を突きながらも、それでも黒竜に向かって剣を抜いた。
<お前がこの村で画家をしている男か。俺はお前の絵を見に来たのだがな>
「ふざけるなっ! この村から出ていけっ!」
<まだ俺は誰も傷付けていないし、この村で誰も傷付けないと約束しよう。俺はお前の描いた絵が見たいだけだ>
黒竜はそれだけ告げた。
退役した騎士は、頑なに剣を向け続けていたが、下手に刺激すると村人達に多くの犠牲者が出る。
「…………。魔族は信用出来ん……。わしの絵が大したものじゃなかったら、この村を焼き払うつもりか? それとも、このように辺境の村で暮らすわしを小馬鹿にしに来たのか」
<どんな絵を描いているのか興味が湧いただけだ。下手な絵なら嘲り笑ってやる。だが、それだけだ。誰も傷付けない。もっとも、お前の心は傷付くかもしれんがな。元々は初めから画家志望だったそうじゃないか。なのに、才能が無くて、騎士の道を選んだ。最初は稼ぎの為だったが、騎士団長補佐にまで出世したのだろう?>
黒竜は、元騎士であり、今はしがない画家をしている男の経歴を知っていた。
「お前はなんだ?」
画家はたじろいだ。
<俺はディザレシーという名のドラゴンだ。お前らが言う処の大魔族。強大なドラゴンだ。上位魔族とも呼んでいるそうだな。もっとも、俺達の間で、そのような階級や称号など存在しないのだがな>
魔法使い達は有無を言わさず攻撃魔法を放っていたが、炎も氷の弾丸も、稲妻の矢も、黒竜の鱗を傷付ける事は出来なかった。そもそも、まるで攻撃が当たる前に“魔法による攻撃が存在しなくなった”といった感触が適切だったのか。
「絵を見せればいいのだな?」
<ああ。絵を見せてくれれば、それでいい。見たら、帰るとする>
「騎士団を去って、絵を描く事はわしの命の煮凝りとなった。決して傷付けるなよ」
<絵は傷付けんよ。だがお前を小馬鹿にはするかもしれんな>
しばらくして、画家はこれまで描いた二十数枚にも渡る絵画を家から村人達に手伝って貰い、持ってきた。広い農家の前に並べた。
ディザレシーと名乗ったドラゴンは、一枚一枚を丹念に眺めていた。
<戦争絵画か。それに、モンスターを討伐する絵も多いな。それはかつての騎士団の者達を描いた絵か。そちらの絵の女と小娘は、貴様の妻と娘か?>
「どうだ。見せてやったぞ」
画家はドラゴンを睨み付ける。
<やはり言うぞ。ヘタクソだな>
ディザレシーは鼻を鳴らす。
画家は顔を赤らめる。
「わしは抽象画の方が得意なのだ」
<人体の筋肉は荒々しくていい。だが色彩が良くない。気に入らないのは、小娘が狼男のモンスターに喰い殺されそうになる絵だ。狼男の恐ろしさが伝わってこない。そちらの方は、人間同士の争いで、戦火で人々が焼け爛れる者達の表情が駄目だ。お前のモンスターや魔族、人間同士の戦争に対しての憎しみはその程度のものだったのか?>
ディザレシーは細かく指摘していった。
画家は少し蒼ざめていた。
「そうだな。わしは何十年も騎士団に仕えていた。空いた時間で絵を描き続けていたんだが。仲間達からの評判はそれ程、良くなかった。ちゃんとした指導も受けていないからな」
<励め。お前が生きている間、お前の成長を楽しみにしている。見たいものは見れたし、俺はもう行く>
「次は…………。次は、お前を打ちのめす程の絵を描いてやる。心得ておくがいいっ!」
元騎士である画家は叫ぶ。
<そうか。次は剣ではなく、筆でも俺に向けてくれ。画家の武器はそれだろう?>
そう告げると、黒竜ディザレシーは村人の誰も傷付ける事無く、空へと飛び立っていってしまった。
後には、茫然自失の表情をしている村人達と、悔しそうな顔をしている画家の姿があった。
†
「隣は、お前の師のアトリエだったな。あれからもう三十年経つのか。今では各地で名のある画家になったものだ。お前の師の描いた絵を見る度に、この村に訪れる者も多いと聞くな」
ディザレシーは部屋の絵画をまじまじと眺めていた。
その瞳は真剣そのものだった。
一点の曇りの無い瞳で、絵画を眺めていた。
「ディザレシー。結局、お前は何なんだ?」
「俺は人間の“想い”という感情に興味がある。それだけだ」
「絵が好きなのか」
「絵も好きだ。最近はお前ら人間の書いた小説を読む事に嗜んでいる。英雄譚が多いな。人はみな、勇者に、英雄になりたがるんだな」
「感想はどうだ?」
「魔族やドラゴン、魔王を倒す物語が多いな。魔族と共存の道を図る物語は少ないんだな。共存を考える物語は売れないのか」
ディザレシーは小さく溜め息を付く。
「世相が反映されているのだろう」
画家は相槌を打つ。
「小説以外は人種問題に関する本を読んでいる。他民族に対する不信感を抱く本がやたらと多い。お前ら人間が嫌悪するのは魔族に限らず、同じ人間も嫌いなんだな」
ディザレシーは首を横に傾げていた。
人が人を憎み、他民族同士で争う状態。
それは、きっと永劫に終わらないのだろうか。
「遠くの国に生きる者達は怖いものさ。わしだって怖い」
「怖いか。そうだろう。本当に、そうなんだろうな」
ディザレシーは部屋の外に出て、空を見上げていた。
澄み切った雲一つ無い青空だ。
この天空の下、数多の者達が生きている。魔族。人間。様々な人種。国境。あらゆる国家。平和な国、戦争している国。内戦を起こしている国。何故、争いは終わらないのだろう。種族なのか、信念なのか。あるいは、知的生命体達に課せられた終わらない難題なのか。
みな、定められた命の下、生きている。
ディザレシーは、平和を願い続ける意志こそが希望なのだと信じたかった。
世界は金融だとか軍事だとか国家だとかに狂信的な者がいて、その利権の下に、みな生きている。それなのに民族だとか種族だとか文化だとかで争い合っている。誰か一人の巨悪を倒せば、世界が平和になるわけではない。余りにも愚かで余りにも空しい現状だ。
芸術は、本当に平和への導きになるのだろうか?
ディザレシーには分からない。
ただ、その行為そのものが希望への道しるべなのだと信じたい。
「また。来年も見に行くぞ」
ディザレシーは画家に告げた。
画家はディザレシーの方を見なかった。熱心に自身の作品に打ち込んでいた。




