36 J B の秘密
「J B はどこにも存在しませんでした。まるで、今のワタシたちみたいに。」
イオはそう言った。
「今の・・・?」
J B が少し驚いた顔でイオに訊ねる。
「それは、衛星画像をリアルタイムで加工してるということかい、イオ?」
「はい。正確には送信された画像を受信側で加工するウイルスを送り込みました。ですから、R国の情報機関にはワタシたちの車を見つけることはできません。」
ウイルはイオがそれくらいのことはやっているだろうと思っていたから、そのこと自体には驚かない。
それよりも、それを J B に明かしてしまっていいのか——とそちらを心配した。ハッキング技術の一つを明かしてしまったとも言える。
今はウイルたちに好意的な態度を見せている J B も、E国の情報機関の一員であることに変わりはない。
「E国に着いたあとは、私たちはどうなるんですか?」
ウイルは質問する。その部分はまだ J B から説明を受けていない。
「あなたたち3人の安全を保証することは確約できます。それはこの任務を受ける条件にしてきましたから。」
J B は言い淀むこともなく、はっきりとそう言った。
「E国の市民権も保証するよう、約束させてきました。ただし、それは博士とイオが我が国の安全保障に協力することが条件ですが。」
安全保障に協力する——と J B が言ったところで、イオは少し顔を曇らせた。
「一つの方法として・・・」
J B は話を続ける。
「あなたたちを守る方法の1つとして、情報部とではなく私との直接契約にしてしまう——というのはアリだと思うんですよ。それなら上層部は納得する。さっきの話は、あながち冗談でもないんだ。それならイオやあなたのやりたくないことを強要しないで済む。」
J B はイオの表情の曇りを敏感に見てとったようだった。
この人物をどこまで信用していいものだろう・・・、とウイルは訝しむ。
あまりにもこちらに都合のいい条件を出しすぎる。
好感度の高い人物ではあるが、この男もスパイなのだ。松原だって、最初のうちはいい人そうだった・・・。
「なぜ・・・」
とウイルは J B の目を見た。
その目は相変わらず、優しげな雰囲気を崩していない。それは「擬態」・・・だろうか?
「なぜ、あなたはそんなにも我々に親切なんです? 捕まえて引き渡すだけでも十分なはずなのに。」
「イオはデジタルデータが何もないのに、私、という人間を信頼してくれた。・・・いや、それ以前に・・・」
J B は、にこりと笑ってイオに視線を向けた。
「私がイオを好きだから・・・かな? 妹もイオのことが好きみたいだったしね。」
イオが驚いた顔で J B を見上げる。
「妹・・・?」
「私は、ほとんどの人から『J B』というコードネームでしか呼ばれていない。」
ウイルの問いには答えず、J B はまるで別のことを話し出した。
「デジタル世界にも私のデータはない。ある意味、存在していないんだ。コードネームだけで・・・。それはイオと同じやり方をしてるんだよ。イオほど手際よくはないけどね。」
「J B はジェームス・ボンドやジェイソン・ボーンを気取って名乗っているのだ——と思っている人も多いみたいだけど、そんなケレン味のある話じゃなく、実は単純に私の名前の頭文字なんだよ。」
J B は肩をすくめて笑ってみせた。
「私の名前は、ジェフリー・ビートなんだ。ジェフって読んでくれていいよ、イオ。」
「ビート?」
ウイルは思わずその名を口にする。
「エレン? ・・・のお兄さん?」
イオが、鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。
「そ。 エレーナ・ビートは私の妹なんだ。彼女はとてもイオのことが気に入っていてね。あそこから消えてから、とても心配していたよ。」
「もっとも」
と、ジェフリーは可笑しそうに笑う。
「エレーナ・ビートは天涯孤独の孤児ということになっているから、彼女に兄がいるとは誰も知らないんだけどね。ごく一部の J B 関係者を除いては。」
それから、くっくっ、と声に出して笑った。
「なにしろ、あのドジっ子だ。あれの兄がまさか J B だなんて、誰も想像すらしないさ。」
吹雪は少しおさまって多少は周囲が見えるようになったが、雪あかりだけのモノトーンの世界で人家の灯りはどこにも見えない。
まるで地球ではないところを走っているような、車は全く進んでいないような・・・。窓の外は、そんな感じさえしてくる風景だった。
こんな時間の中では、確かに身の上話でもするしかないかもしれない。
それが、たまたま乗り合わせただけの普通の旅人同士なら・・・。
しかし・・・。目の前でウイルたちにそれを話しているのは、誰もその正体を知らないという伝説と言ってもいいスパイなのだ。
「どうしてこんなことまで私たちに話してくれるんです? ごく一部の関係者しか知らない話なんでしょ?」
ウイルにはジェフリーの真意がつかめない。
ジェフリーはまたイオを優しげな目で眺めた。
「協力するにしても、こちらのことを知っておきたいでしょ? 私は・・・、いや、私たち J B チームは、イオですら見つけられないほどデジタル世界にその存在がありません。」
「ビートさん・・・」
イオが少し不安そうな顔でジェフリーを見た。
「ジェフ——って呼んでくれると、嬉しいんだけど?」
イオはちょっと戸惑いながら、もう一度言い直す。
「ジェフ・・・?」
ジェフリーが本当に嬉しそうに破顔した。
「うん! ありがとう。」
その笑顔は J B として見せていた洒脱なそれではなく、なんだか子どもみたいな笑顔だった。
「私はね——。本気で博士やイオと組みたいんですよ。私は博士の生い立ちから家族関係、イオが生まれた時の大学内散歩の映像まで、多くのデータを持っているんです。なのに、イオには何のデータも渡していない。これはフェアじゃないと思うんですよ。『組みたい』と言う以上ね。」
「それは私たちみたいに『家族』になる、ということですか?」
運転席からアイリーンが話に入ってきた。
「家族? あなたたちは家族なんですか?」
ウイルの問いにジェフリーはすぐには答えず、最初のアイリーンの質問にまず答えた。
「外部協力関係だよ、アイリーン。イオはかわいい子だし、そうしたいのはやまやまだけど『家族』として迎えたら娘のソーニャがむくれるだろう。どうやったって、イオの能力には敵わないんだから。彼女の存在価値を否定するみたいに受け取られてしまいかねない。」
「む・・・娘さんがいらっしゃるんですか?」
ウイルがまた驚いた。
イオの能力、とはおそらくハッキング能力のこと。すると娘というのは2歳や3歳の子どもではあるまい。スパイ活動をサポートし、デジタル世界から彼らの痕跡を消してしまえるほどの能力を持っているとしたら・・・。
ジェフリーはそんな大きな子がいるような年齢には見えないが・・・。
「養子です。血のつながりはないんだ。チーム内ではイオのような仕事をしてもらっています。」
「私たちもね。血はつながってなくても家族なのよ。」とアイリーンが運転席で前を向いたまま言う。
「ただ、奥さんだか助手だか、よくわかんない関係なんだけど——?」
私たち・・・?
「助手です。アイリーンの他に2人いる。」
大真面目な顔を作ってジェフリーが言うと、アイリーンがすかさず運転席からツッコんだ。
「3人とも女性ですけどね——?」
「それは、だって・・・・」
彼女いない歴=年齢のウイルは、ジェフに対する好感度が少しだけ下がった。
(`ω´)
いつ目を覚ましたのか、古川先生が横になったまま、くっ、くっ、と笑っている。
「みんな戦災孤児なんですよ。私とエレンだけじゃなく、アイリーンたち3人も、娘として引き取ったソーニャも——。」
あ・・・。好感度、持ち直したかも・・・。
「信じないかもしれないけど、こんな仕事をしているのは戦争を未然に防ぎたいからなんです。表に出て、政府の引っ込みがつかなくなってからでは手遅れなんだ。」
ウイルもイオも思わず目を上げてジェフを見た。
ジェフの表情は、いたって真剣そのものだった。
「博士とイオなら、その志を共有できるように思えたんです。」
R国の夜は長い。
車は降り続く雪の中を走り続ける。
その内に、少しだけ暖かな秘密を載せて——。




