傷ついた人間
傍らでのたうち苦しむ若者の背を見れば、その背中に広がる黒い鏡の中に、クレールの顔をしたモノの、恍惚陶然と蕩けた表情が映し出されていた。
その顔が、次第に小さくなってゆく。
像が知人でいるのではなく、黒い鏡面そのものが縮んでいるのだ。
泥水が地面に吸い込まれるように、水たまりが陽光に乾されるように、鏡が狭まっていゆく。
イーヴァンが再び血反吐をまき散らすのと同時に、鏡は消えた。
若者の背中は、骨の浮いた生白い「人の肌」に戻った。
クレールは彼の首筋に触れた。指先に頸動脈を流れる血潮の脈動が感じられた。
「生きている」
クレールの口元に安堵の微笑が浮かんだ。彼女はその唇をイーヴァンの耳元へ近づけ、
「気を確かに持ちなさい」
囁いた。
声は間違いなく彼の魂に届いた。
イーヴァンはうつろな目を泳がせて、その声の主を探した。
霞んだ世界に、光背を頂いた人の影が霞の向こうに見えた気がする。その人は、柔らかく、力強く、微笑んでいる。
身体の中から彼を痛めつけた「何か」は消え去っていた。
イーヴァンは体の芯に熱い力がわき起こってくるのを感じた。
彼の顔に血の気が戻りつつある。それを見て、
「案ずるな、君は助かる」
クレールは断定的に言った。
身を起こそうとするイーヴァンを押し戻し、汚物の海をよけて仰向けに横たえさせると、彼女はシルヴィーを捜した。
先程来と同じ場所、同じ姿勢のまま、彼女はへたり込んでいた。
「君一人ではここから逃げられませぬか?」
静かな声で聞かれ、シルヴィーは小さく頷く。恐ろしさに腰が抜け果てて、立ち上がることさえできない。
クレールは続けて、
「ではここで、この人を看ていてください」
今度はシルヴィーの首が横に振られた。
乱暴に剣を振り回し、背中から手を生やした「化け物」の側にいることなど、恐ろしくてできるはずがない。
震えるシルヴィーに、クレールは微笑を送った。
「大丈夫。魔物は私が退治しました。彼は人間に戻った……いや、彼は元より人間なのです。大きな怪我を負った、一人の人間です。
お願いですシルヴィー、彼を助けてあげてください」
クレールはシルヴィーの返事を聞く前に立ち上がった。瞼を閉ざして静かに呼吸するイーヴァンの体を飛び越えると、彼女は楽屋出口へ走った。
先ほどまでそこに立っていた男の姿は消えている。
開け放たれていた形ばかりのドアを抜け、通路へ飛び出す。
無造作に置かれた書き割りの風景の前を駆けて遠ざかるブライト・ソードマンの背が見えた。
彼の進路が舞台方向へ折れ曲がる時、ブライトは横顔に小さな笑みを浮かべた。急に足が速まる。
クレールの姿を視認したのだ。
相棒が自分の後を追ってくる……それはつまり、彼女が「任された仕事」を成し得たということだ。
ブライトは安堵していた。




