人の噂
同時に、皇弟が生きていると証明する報がないのも、また事実であった。
ここ数年彼は封地ガップから一歩たりとも出ていない。書簡の一通さえも発していない。
四、五年程前までは頻繁に、ハーン家を含めて複数の諸侯と文通をしていたというのに、である。
ガップは半ば鎖国の状態であるとも言う者がいるが、これは間違っている。
実際には彼の地に人の出入りがない訳ではない。
ただ、君主に謁見できた者がいないのだ。
そのため、皇弟は病を得て重篤な状態だという噂も立った。広がった噂には、病のために、二目と見られぬ容姿に変じてしまったのだという尾鰭も付いている。
乱心して岩牢に閉じこめられているなどいう説は、彼が兄フェンリルに帝位を「奪われた」ころから、延々ささやかれ続けている。
妙な噂が流れる度に帝国政府はそれを否定している。
「誤報である」「誤謬である」「径庭はなはだしい」「事実と異なる」
「皇弟は病を得てなどいない。重篤な状態ではない。容姿が損なわれたということはない。乱心などしていない」
強く否定の言葉を出汁ながら、続いてしかるべき「健勝である、壮健である」などの語句は一切出てこない。
そのため、人々の疑念は深まる。
だがそれを口にすることを皆が憚り、押し黙っている。
今、ブライトも押し黙っている。
彼が帝室を畏れているからでは無い。
『相棒が動揺する』
ブライト自信が嫌う件の人物は、クレールにとっては唯一残されたと言っていい「家族」に他ならない。
だが、いつまでも黙っているわけにも行かない。
時として沈黙は詭弁よりも雄弁となる。察しのよい人物に対してであれば、なおのことだ。
クレールの深い緑の瞳に不安の影が揺れている。
ブライトは口を開かざるを得なくなった。
「あの男はテメェの城の外側にシンパが集ってくるタイプだからな。範囲が広すぎて、簡単にゃこいつの正体を絞り込めやしねぇよ」
彼は呟きながら、封蝋とその中の「魂の破片」を己の腰袋の中に押し込んだ。
「そう、ですね」
クレールの唇の端が、小さく持ち上がった。
目の奥の不安は消えていない。こわばった作り笑いであっても、表情を変えるという行動によって、己を納得させようとしているのだ。
「さて――」
ブライトは声と呼吸音の混じった音を吐き出すと、
「奴やっこサンの誘いに乗ってみようかね。当然、あいつの思惑通りの行動をする気はねぇが」
クレールの背中を平手で軽く叩いた。
押し出された彼女の足がちいさく一歩踏み出すのとほとんど同時に、ブライト・ソードマンも広い歩幅で歩き出した。
入り口の縦穴にたどり着く頃には、彼は完全にクレールを先行していた。
助走をせず、膝を深く曲げることもなく、頭上に切り取られた四角い空間へ垂直に飛び上がる。
彼の巨体は音もなく地上へと舞い戻った。
向き直り、膝をついて、右の腕だけを穴の中に差し入れる。
無言だった。足下のクレールにわざわざ声を掛ける必要はない。彼女も問いかけの必要性を感じていなかった。
大きな掌にひんやりとした白い指が絡まる。
彼女の体は軽々と持ち上がり、ブライトの傍らにふわりと着地した。
一言の礼の代わりに、小さな、しかし自然な微笑が返ってきた。




