今いるべき【世界】へ
動くことを止めた【月】に向かって、
「汝の今あるべき所へ戻れ。汝の今いるべき世界へ還れ」
呪文のように呟いたクレールは、自由の効く左の手で【月】……ヨハンナ・グラーヴの頬にそっと触れた。
左掌の薬指のあたりが熱を帯びているのを、触れているクレールも触れられているヨハンナも感じた。
ヨハネスと呼ばれ、自身もそう称していたヨハンナ・グラーヴの顔は、風雨にさらされた石像のように、薄く滑らかに摩耗してゆく。
尖った顔立ちが、次第に丸く穏やかな形に変じていった。
「ヨハンナ様っ! ヨハンナ様っ!」
傷ついた身をようやっと起こしたイーヴァンは、摩耗し尽くして目鼻も判らなくなった古い石像の、岩の塊に抱きついた。
「ヨハンナ様っ! お願いです僕を見限らないでください。僕を置いてゆかないでください。僕をまた独りにしないで下さい。お願いです、お願いです!
ああ、姉上! たった独りの僕の姉上! 僕をおいて逝かないで!!」
狂乱し、泣き叫ぶ。
岩の変容は止まらない。細く短く縮み、削れてゆく。
そして消えた。
イーヴァンの膝が折れた。地面にしゃがみ込む彼の腕の中から、赤く硬い半球の塊がするりと落ちた。
半球は埃だらけの敷物の上を滑るように転がった。
追おうとしたイーヴァンだったが、今の彼にその余力はなかった。体は一寸も動かない。
彼は目玉をどうにか動かして、ようやく赤い石くれの動きを追いかけた。
半球は意思を持っているかのように動いた。自ら、イーヴァンから遠く離れてゆこうとしている。
しばらく滑り動いて後、それはイーヴァンが動けないことに気付いたかのようにぴたりと停まった。
「ああ、あんなに遠くへ……。ヨハンナ姉様……僕は姉上にさえも見限られた……」
若者は顔から倒れこんだ。腕にも背骨にも自身の体を支えかばう力が残っていなかい。
「そうでは、ないと思います」
クレール=ノアールが小さく言った。
すっかり気力を失っていたイーヴァンは顔を上げることもできず、かすかな声が振ってくるのを待った。
「あの方は……君に力がないから離れた。今の君の心があまりに弱いから……」
事実だ。反論ができない。イーヴァンは瞼をきつく閉じた。眼球の上に満ちていた熱い液体が押し出され、溢れた。
「だから……君のご主君……。
いえ君はいまあの人を姉と呼びましたね。
君の姉上が君から離れたのは、君が自分という死人に魅入られて、鬼に……人でない物に……堕ちて仕舞わぬように願ったからです。
君に自分の二の舞を演じて欲しくなかったのですよ」
「僕は、それでも構わない。苦しくてもあの人と一つになれるなら」
イーヴァンは両腕に力を込めてどうにか身を起こし、顔を上げた。
暗がりの中に線の細い若者が立っている。
右腕をだらりと下げ、肩で息をしていた。
クレールもようやく立っている。青白い顔の中から鋭い視線をイーヴァンに向けている。
「あの方に……また大切な人を殺させるのですか……」
クレールの声は徐々に弱々しく、最後は聞き取れぬほどに細くなり、消えた。
語尾とほとんど同時に、彼女の体は大きく揺れ、後ろへ倒れた。
倒れ込む方向には、ブライト・ソードマンの広い胸がある。




