賢弟愚兄
舞台の床をバタバタ鳴らすマイヨールの足取りは、泥酔した酒飲みか、疲れ果てた労働者の如く、フラフラとしたおぼつかないものだった。
不自然な音に気付いたフレイドマル座長が、観客席から舞台上を見上げた。途端、その顔面を覆い尽くしていた不安と焦りの土気色が、あっという間もなくバラ色に変じた。
壊れた木戸の軋みに似た、耳障りのする高いかすれ声で、
「おお兄弟! わたしの可愛い弟! ほらグラーヴ卿をご案内したよ! さあ、ご挨拶をして、それから愚兄にキスをしておくれ!!」
丸い額と眼玉をキラキラと光らせ、大きく腕を広げた。
ふらつき歩きを披露しつつ、マイヨールは微笑を浮かべた。
『禿め、自分の都合の悪い時ばかりおべっかを使いやがって。何が兄弟だ、可愛い弟だ。冗談はその面だけにしやがれ!
私ゃあんたのご両親のことは親とも思っちゃいたが、あんたに兄事した覚えはこれっぽっちだってありゃしないんだ!』
胸の奥で唾を吐く。
狼狽しきりのフレイドマルにマイヨールの心中を透かし見る余裕などない。……いや、彼はそもそもそんな推察力を持ち合わせていない。
マイヨールの疲れ果てた面に浮かんだかすかな笑みを、見た目以上に己に都合良く解釈した。
『あとはマイヨールが上手く取りはからってくれるに違いない。口先三寸で言いくるめ、最高の演技をし、勅使様のご不興を晴らしてれる筈だ。
もししくじったら……そんなことはないだろうが、万が一にもこいつが失敗して、勅使様の逆鱗に触れたとしても、自分は悪くない。
不首尾の原因は書き損ね演じ損ねのマイヨール自身にあるんだ。
演目に関わっていない自分には非がない。
首を刎ねられるのはあいつの方だ。
非のない自分が閣下からお叱りを受けるはずがない。
自分は助かる。自分だけは助かる。
だいたい、この屑ときたら、我が侭勝手に団員を動かして、自分の言うことをこれっぽっちも聞かない高慢ちきだ。
踊り子どもも、裏方どもも、皆こいつの口車に乗せられて、自分に逆らってばかりいる。
どだい、マイヨールが連中に指図すると言うこと自体が、おかしいんだ。
あいつはオヤジがどこからか拾ってきた、食い詰めた軽業師にくっついていたコブじゃないか。親が死んで孤児になっちまったから、可哀相だからって養ってやったんだ。
おとなしく舞台の隅で宙返を切っておりさえすればイイっていうのに、ちっとばかり読み書きができたもんだから、オヤジに気に入られて、いつの間にか劇作家センセイ気取りに増長しやがって。
どこの馬の骨とも知らない薄汚れたボロ切れめ、偉そうな顔ができるようなご身分じゃないだろう。
こいつが一座からいなくなってしまえばいっそ清々するというものだ。
この一座の座長は誰だ? この自分だ。
この一座は誰のものだ? この自分のものだ』
想像というよりは、妄想、あるいは願望と表した方が良い。
フレイドマルが元々マイヨールに対して抱いていた嫉妬の悪感情が、恐怖のために更にねじ曲げられ、醜い方向に膨らみきっている。
思考が歪んだ成長をするということは、もとより心の中の「そちら側」に隙間があったからに他ならない。フレイドマルの中にマイヨールを疎ましく思う心があるのは紛れもない事実だ。
同時に、彼に依存しているのも真実なのだ。




