温泉旅行――6
あれから彩芽がアプローチしてくることはなかった。
露天風呂から上がったあとも、夕食中にもなにも仕掛けてこず、そのまま就寝することになった。彩芽がどんなアクションを起こすのかと身構えていただけに、拍子抜けだ。
しかし、彩芽が俺たちの関係を変えようとしていることは間違いない。なにしろ、彼女は決定的な言葉を口にしたのだから。
「『わたしの気持ちに気づいているのではないですか?』か……」
無論、気づいている。
彩芽が俺を好いているのも、『仲良しの男女』から『恋人同士』になりたがっているのも、わかっている。
けれど、その気持ちに応えることはできない。
そんなことをしたら、彩芽に失礼だ。俺なんかに、彩芽と付き合う資格なんてないのだから。
いや。『彩芽に失礼』というのは建前に過ぎない。
彩芽の気持ちを拒んだら、俺たちの関係が壊れてしまう。俺はそれが嫌なのだ。いまの関係が、彩芽の側にいるのが、心地いいから。
だから、答えを先延ばしにしている。すべては俺のエゴだ。
自分に嫌気が差して、溜息をつく。
「ズルいやつだよな、俺は」
「哲くん、起きていますか?」
彩芽が話しかけてきたのは、俺が自嘲の呟きを漏らした、そのときだった。
いきなりのことに、心臓がドキリと跳ねる。
ど、どうしよう? 素直に起きているって教えるか? でも、彩芽がどんな意図で話しかけてきたのか、わからないし……。
答えるべきか否か、逡巡する。
迷った末、無視するのはよくないと判断して、俺は返事をした。
「あ、ああ。起きてるよ」
俺の返答に彩芽がどう応対するか、緊張しながら待つ。
しかし、彩芽からの反応は一向になかった。
代わりに聞こえたのは、布が擦れるような音。
「……彩芽?」
どうしたのだろう? と彩芽のほうをうかがって――ギョッとした。
彩芽が、俺のベッドに乗ろうとしていたからだ。
「なっ!?」
驚きのあまり、思考と体が停止する。
身動きが取れないあいだに、彩芽は俺の腰に跨がってしまった。
俺を見下ろす彩芽の頬は、ほのかに色づいている。薄暗い部屋で眺める美しい桃色は、まるで夜桜のようだ。こんな状況だけど、見とれずにはいられない。
美しさに囚われた俺が無言になるなか、彩芽が口を開いた。
「わたしの気持ちに気づいているとは思いますが、こういう大切なことは、自分の口から伝えないといけませんよね」
彩芽の唇はかすかに震えていて、表情も強張っている。緊張と不安を覚えていると、一目でわかる状態だ。
それでも彩芽は、ひとつ息を吸って、告げる。
「わたしは哲くんが好きです。あなたのカノジョになりたいです」
告白されることが、誰かに好意を伝えられることが、こんなにも嬉しいとは思ってもみなかった。
歓喜と高揚と感動が湧き上がり、涙してしまいそうになる。
告白された余韻がジンと俺を痺れさせる。胸がいっぱいになり、言葉を発することができない。呼吸すら忘れてしまいそうだ。
予想外の告白に呆然とするなか、彩芽がさらに、予想外の行動に出た。
浴衣をはだけさせて、肌をさらしはじめたのだ。
その衝撃的な行動が、俺にとっては気つけになった。
思考と体が再起動して、反射的に声を上げる。
「な、なにしてるの、彩芽!?」
戸惑いながら問いただすが、彩芽は答えない。止まろうともしない。
なおも浴衣をはだけさせて、ついには純白のブラジャーを露わにしてしまった。
匂い立つような色気と、神々しいまでの美しさに、心臓が狂ったみたいに早鐘を打つ。
俺が再び言葉を失うなか、彩芽が静かに語りだした。
「露天風呂で、哲くんはわたしに注意されましたよね? 『無防備に近づいてきたらいけない』と。『わたしを傷つけてしまうかもしれない』と」
熱を孕んだ小豆色の瞳が、真っ直ぐに俺を見つめる。
「これまでに何度かお伝えしましたが、『哲くんでしたら構わない』んです。哲くんになら、なにをされてもいいんです。あなたが付けてくれたものなら、傷でさえ愛おしいんです」
彩芽の言葉はさながら美酒のよう。耳から脳髄に染み入り、俺を酩酊させる。
彩芽は俺に身を捧げようとしている。俺の醜い欲望を受け止めようとしてくれている。男として、こんなにも満たされることはあるだろうか?
目眩がしそうなほどの興奮を得るなか、彩芽が俺の両頬に手を添えた。
「ですから、お願いします。どうか受け入れてください」
ゆっくりと体を倒し、彩芽が唇を近づけてくる。
彩芽の気持ちには応えられないと思っていた。応えないと決めていた。
しかし、真っ直ぐすぎる想いに、深くて一途な愛に、俺の決意が揺らぐ。
彩芽の想いを受け入れたい。余計なことを考えず、恋人になりたい。このまま流されてしまいたい。
けれど、
彩芽の想いが真っ直ぐすぎるからこそ、
彩芽の愛が深くて一途だからこそ、
流されるわけには、いかないのだ。
倫理観を総動員して欲望に抗い、彩芽の肩をつかむ。
小豆色の瞳が見開かれ、不安げに潤んだ。
「哲、くん……?」
これ以上、彩芽を見ていられなかった。
顔を背け、絞り出すように答える。
「……ごめん」
「――――――っ」
彩芽が息をのんだ。
俺の頬に添えられた両手が、カタカタと震える。
やけに長く感じる、短い沈黙。
彩芽がか細く呟いた。
「……そう、ですか」
はだけた浴衣を直し、俺の腰から下り、彩芽が自分のベッドに戻っていく。
彩芽の後ろ姿は、まるで抜け殻みたいだった。もろくて、儚くて、いまにも消えてしまいそうだった。
締め付けられるように、俺の胸が痛む。
こちらがフったくせに、彩芽を傷つけたくせに、傷心している自分が、卑怯者に思えてならなかった。
以降、この旅行で俺たちが会話することは、なかった。




